リビングのヒーターが故障した。修理部品取り寄せに三日ほどかかるという。




2004ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)


January 1812004

 女客帰りしあとの冬座敷

                           志摩芳次郎

語は「冬座敷」。明るい夏座敷とは対照的で、障子や襖を閉めきってある。句の場合は家族が起居する部屋ではなく、いわゆる客間だ。昔であれば火鉢に鉄瓶の湯をたぎらせたりして、冬の座敷ならではの風情を演出した。我が家にはそんな余裕はないけれど、少年時代に一時厄介になった祖父の家には、ちゃんと来客用の座敷があった。客のいないとき、気まぐれに入り込んだこともあるけれど、子供には純日本間の良さなどはわかりようもなく、ただガランとしていてつまらない空間としか思えなかった。部屋はやはり、いつも誰かがいたり、いた気配があってこそ親しめる空間なのだろう。さて、掲句。「女客」は自分の客ではなく、母親か妻を訪れた女性だと思う。自分の客であれば、女客などと他人行儀な言い方はしないはずだ。だから作者は、その客がどこの誰と聞かされてはいても、挨拶もしていないのだから、よくは知らないのである。で、「帰りしあと」に何か必要があって、座敷に入った。男の客が帰ったあととは、部屋の雰囲気がずいぶんと違う。煙草の煙もなく、もてなしの茶菓にもほとんど手がつけられていなかったりする。唯一そこに家族とは違う人がいたのだという痕跡は、香水の残り香であって、それがつい最前までの座敷の華やぎを思わせる。べつに淋しいということでもないけれど、華やぎを喪失した部屋のたたずまいに、作者は軽い失望感のようなものを覚えているのである。しばらく、意味もなく部屋を眺め回したりする。「それがどうしたんだ」と言われても答えにくいけれど、冬座敷はこのように、漠然たる人恋しさを感じさせる空間でもあるようだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1712004

 雪をんな紐一本を握りたる

                           鳥居真里子

語は「雪をんな(雪女)」、雪女郎とも。たいがいの歳時記は春夏秋冬・新年と言葉を季節ごとに分類し、さらに「天文」「地理」「生活」「行事」などと項目を細分化して収録している。さて、それでは「雪女」はどの小項目に分類されているのか。「生活」とか「人事」だろうか、待てよ「動物」かしらんと、案外に即答できる人は少ない。正解は「天文」で、「雪晴」や「風花」と同列である。つまり「雪女」は、昔から明確に自然現象と位置づけられてきたわけだ。もう少し細かく分けるとすれば、豪雪が人にもたらす幻想幻覚だから、「狐火」などとともに「天文>幻想」の部に入れることになるだろう。「みちのくの雪深ければ雪女郎」(山口青邨)。ところが昨日あたりまでの北日本の大雪は例外として、地球温暖化が進むに連れ、雪があまり降らなくなってきた。正月には雪が当たり前だった地方でも、むしろ雪のない新年を迎えることはしばしばだ。したがって、当然のことながら、雪女の出番も少なくなってきた。にもかかわらず、俳句の世界では人気が高く、よく詠まれているようだ。が、昔の人はこの幻想に実感が伴っていた。深い雪に閉ざされた暮しのなかでは、その存在を信じないにせよ、自然に対する怖れの心があったからだ。いまは、それがない。だから、現代の多くの雪女句は、自然への怖れを欠いているがゆえに、本意を遠く離れて軽いものが多い。無理もないけれど、もはや多くの俳人にとっての雪女は天文現象とは切れていて、なにやらアイドル扱いしている様子さえうかがえる。掲句の作者はおそらくそのことに気がついていて、雪女にもう一度リアリティを持たせたかったのだと思う。そのためには、どうするか。思いを巡らせ、小道具に「紐一本」を握らせることで、何をしでかすかわからぬ不気味さを演出してみせたのである。現代版雪女には違いないけれど、少しでも本意に近づこうとしている作者に好感を持つ。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)




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