櫂未知子さんが「俳句」2月号で『打つや太鼓』の評を書いてくれた。感謝。




2004ソスN1ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2412004

 鮟鱇の句ばかり詠んでまだ食はず

                           大串 章

語は「鮟鱇(あんこう)」で冬。食べる機会がなかったのか、食べたくないので食べなかったのか。いずれにしても句の素材にはよく使ってきたのだが、「まだ食はず」。ははは、なかなか正直でよろしい。かくいう私も、これまで一度も食べた覚えがない。美味というが、どんな味がするのだろう。実はこの冬にある詩人に誘われて、本場茨城まで鍋を食べに行く予定だったが、彼の突然の入院で、あえなく中止となってしまった。この分では、一生食べないままで終わりそうだ。私の場合は食べたいとは言っても、とりあえず「ハナシのタネに」程度の願望だから、それはそれで構わないのだけれど……。ところで掲句の味は、正直がおのずからユーモアに転化しているところにある。作者も、そこを意図して詠んでいる。だが、何でもかでも正直に言えばユーモラスな味が出るかといえば、そうはいかないところが微妙である。季語の使用に際しては、詠む当人はもとより、読者もその物や事象をよく知っていることが前提だ。この約束事を無視してしまえば、有季定型句は崩壊する。だから句の鮟鱇などは、作者が食べていなくても姿を知っていることで前提は崩れないけれど、他の季語ではいわゆる知ったかぶりでしかない使用句も散見される。例えば何故か人気の高い「涅槃(ねはん)」句の半分以上は、私の偏見からすると、その意味で同意できない。このときに仮に「涅槃句を作りつづけて本意知らず」と正直に言う人がいたとしても、絶対にユーモアには転化しないのである。掲句は、そうした知ったかぶり句に対し、あえておのれを道化役にして、やんわりと皮肉っているようにも読めてくる。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


January 2312004

 運命やりんごを砕く象の口

                           長谷川裕

来「りんご(林檎)」は秋の季語だが、貯蔵力が強いので、昔から冬季にも広く出まわってきた。雪の降る日の店先で真っ赤な林檎を見かけたりすると、胸の内までがぽっと明るくなるような気がする。だが、掲句の「りんご」は、そんな抒情的なしろものじゃない。情を感じる余裕もあらばこそ、大量の林檎があっという間に次から次へと「象の口」に放り込まれ噛み砕かれてしまう。これが「運命」と言うものか。と、作者は呆れつつも得心し、得心しつつも呆然としている図だ。自分の運命も、考えてみればあれらの林檎のように、あれよという間に噛み砕かれてきたようである。ちょっと待ってくれ。そう願ういとまもなく、他の多くの林檎たちともどもに噛み砕かれ消化され、あとには何の痕跡も残らない。そこで力なく「へへへ」と笑うがごとくに、自然に「運命や」の慨嘆が口をついて出てきたということだろう。なんとなく滑稽であり、なんとなく哀切でもある。自己韜晦も、ここまで来れば立派な芸だと言うべきか。ところで、象も歯が抜ける。近所の井の頭自然文化園で飼育されている「花子」は、もう五十年以上も生きているのだが、歯はもはや一本もない。といっても、象の歯は四本しかないけれど……。だから、いまは完全に流動食で暮らしており、係の人は大変だそうだ。すなわち、象にもそれぞれの運命がある。「花子」が掲句を読んだとしたら、はたして何と言うだろうか。やはり、力なく笑ってしまうのだろうか。『彼等』(2003)所収。(清水哲男)


January 2212004

 軒を出て狗寒月に照らされる

                           藤沢周平

語は「寒月(冬の月)」。軒下にいた「狗(いぬ)」が、のそりと庭に出た。折しも月は中天にかかっており、煌々と狗を照らしだしたと言うのである。狗の輪郭も影のそれもがくっきりと写し出されていて、いかにも寒そうだ。寒夜の寂寥感も漂っている。いつか見たことのあるような、懐かしいような冬の夜の情景である。狗一匹の動きから、冷え込んだ夜の大気を連想させたところが巧い。なお初稿では「狗」の表記ではなく「犬」となっていて、私は「犬」のほうが良いと思う。この句は作家・藤沢周平の自信作だったらしく、色紙にはいつも「バカのひとつおぼえのように」この句を書いたという。エッセイに曰く。「この句は、むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句なので、誰はばかるところもない。臆するところもなく書く。だが、同じひとに二枚も三枚も色紙を出されると、とたんに私の馬脚があらわれる。これはと思う手持ちの句は、『軒を出て』一句だけなのだ」。謙遜しているのではなく、正直な文章だ。彼が句作に集中したのは若き日の結核療養所時代の一年半ほどらしいから、そうそう手持ちがあるはずはない。いま、残された彼の句を見渡してみても、掲句に比肩するものは数句程度だ。でも、それで良いのである。そう思う。どんどん傑作の書ける人はむろん素晴らしいけれど、たまたま先生にほめられた一句を後生大事に抱えている素人同然の人のほうが、私は好きだ。人にはこうした「いじらしさ」があったほうが、人間としての味がよほど良く出る。作品以前に、人ありきではないか。俳句よりも人が大事。『藤沢周平句集』(1999・文藝春秋)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます