ご恵贈の句誌句集にお礼状は差し上げられませんが丁寧に拝見しております。




2004ソスN1ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)


January 2412004

 鮟鱇の句ばかり詠んでまだ食はず

                           大串 章

語は「鮟鱇(あんこう)」で冬。食べる機会がなかったのか、食べたくないので食べなかったのか。いずれにしても句の素材にはよく使ってきたのだが、「まだ食はず」。ははは、なかなか正直でよろしい。かくいう私も、これまで一度も食べた覚えがない。美味というが、どんな味がするのだろう。実はこの冬にある詩人に誘われて、本場茨城まで鍋を食べに行く予定だったが、彼の突然の入院で、あえなく中止となってしまった。この分では、一生食べないままで終わりそうだ。私の場合は食べたいとは言っても、とりあえず「ハナシのタネに」程度の願望だから、それはそれで構わないのだけれど……。ところで掲句の味は、正直がおのずからユーモアに転化しているところにある。作者も、そこを意図して詠んでいる。だが、何でもかでも正直に言えばユーモラスな味が出るかといえば、そうはいかないところが微妙である。季語の使用に際しては、詠む当人はもとより、読者もその物や事象をよく知っていることが前提だ。この約束事を無視してしまえば、有季定型句は崩壊する。だから句の鮟鱇などは、作者が食べていなくても姿を知っていることで前提は崩れないけれど、他の季語ではいわゆる知ったかぶりでしかない使用句も散見される。例えば何故か人気の高い「涅槃(ねはん)」句の半分以上は、私の偏見からすると、その意味で同意できない。このときに仮に「涅槃句を作りつづけて本意知らず」と正直に言う人がいたとしても、絶対にユーモアには転化しないのである。掲句は、そうした知ったかぶり句に対し、あえておのれを道化役にして、やんわりと皮肉っているようにも読めてくる。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


January 2312004

 運命やりんごを砕く象の口

                           長谷川裕

来「りんご(林檎)」は秋の季語だが、貯蔵力が強いので、昔から冬季にも広く出まわってきた。雪の降る日の店先で真っ赤な林檎を見かけたりすると、胸の内までがぽっと明るくなるような気がする。だが、掲句の「りんご」は、そんな抒情的なしろものじゃない。情を感じる余裕もあらばこそ、大量の林檎があっという間に次から次へと「象の口」に放り込まれ噛み砕かれてしまう。これが「運命」と言うものか。と、作者は呆れつつも得心し、得心しつつも呆然としている図だ。自分の運命も、考えてみればあれらの林檎のように、あれよという間に噛み砕かれてきたようである。ちょっと待ってくれ。そう願ういとまもなく、他の多くの林檎たちともどもに噛み砕かれ消化され、あとには何の痕跡も残らない。そこで力なく「へへへ」と笑うがごとくに、自然に「運命や」の慨嘆が口をついて出てきたということだろう。なんとなく滑稽であり、なんとなく哀切でもある。自己韜晦も、ここまで来れば立派な芸だと言うべきか。ところで、象も歯が抜ける。近所の井の頭自然文化園で飼育されている「花子」は、もう五十年以上も生きているのだが、歯はもはや一本もない。といっても、象の歯は四本しかないけれど……。だから、いまは完全に流動食で暮らしており、係の人は大変だそうだ。すなわち、象にもそれぞれの運命がある。「花子」が掲句を読んだとしたら、はたして何と言うだろうか。やはり、力なく笑ってしまうのだろうか。『彼等』(2003)所収。(清水哲男)




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