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February 0222004

 全人類を罵倒し赤き毛皮行く

                           柴田千晶

語は「毛皮」で冬。「赤き毛皮」だから、着ているのは若い女性だろう。この女性の心中で、何がどのように鬱屈しているのかはわからない。わからないが、鬱屈が高まって、ついに「全人類を罵倒」するにいたった激情はわかるような気がする。昨今の政治家や企業家たちの愚かさや、また私を含めて、彼らの愚かさに結果としては従順に付き従っている庶民の愚かさなどを省みるとき、いまや人類は自己疎外の極に立っていると言っても過言ではないと思われる。世界中の人間は、すでにまったく「物」と化しているのではあるまいか。ここで激情を噴出させない人間のほうが、本当はどうかしているのである。「赤き毛皮」の女性の呪詛は、しごく真っ当なのだ。この女性は作者その人ではないだろうけれど、作者の気持ちを分かち持っており、作者の分身だと見た。それも具体的現実的に目の前にいる人物ではなく、現代にあらまほしき人物として作者の想像世界を颯爽と歩いているのだとも……。下世話なことを言うようだが、このときに罵倒している主体が若い女性であるから、句になった。これが若い男やおじさん、おばさんだっていっこうに構わない理屈にはなるが、読者にこの中身をうまく伝えるに際しては、やはり「赤き毛皮」(のコート)の訴求力に求めるのがいちばんだろう。再び下世話に言えば、「赤き毛皮」は激情によく通じ、とにかく絵になるのだ。格好が良いのだ。というと浅薄に聞こえるかもしれないが、コミュニケーションにおける格好の良さは、とても大事な要素だと、私はいつも思ってきた。俳誌「街」(No.45・2004年2月)所載。(清水哲男)


October 12102009

 金木犀闇にひたりと父在りき

                           柴田千晶

親にとって子供はたしかに存在するが、子供にとっての父親は虚構のような存在なのかもしれない。子供に父親の実在は認識できても、それはほとんど他者の実在に対する認識と同じようである。なぜその人が、自分と同じ場所にいつも一緒にいなければならないのか。いま一つ、実感的な必然性に欠けるのが父親というものであるようだ。そこが母親とは大いに異なるところである。掲句を読んで、ことさらにその感を深くした。たしかに「父在りき」と詠まれてはいるけれど、この父は存命のときさながらに「在る」のではない。具象的なかたちを伴わず、非常に抽象的に存在している。解釈を百歩ゆずっても、せいぜいが半具象的な父親像である。それは闇のなかでは芳香が強いことでのみ存在感を示す金木犀と同様に、父親の「在る」姿は確固たるものからはほど遠く、あたりにただ瀰漫しているといったふうである。だから作者が「父在りき」というときに、父親は明確な像を結ぶのではなく、かなり茫漠とした印象である。つまり、句の父は父親というよりも、むしろ「父性」に近い言葉なのだと思う。同じ句集に「徘徊の父と無月の庭に立つ」があり、きわめて具体的な情景ではあるが、闇の庭でかたわらに立っている父親はまるで実感的な絆のない他者のようではないか。このように写るのは「徘徊」する父だからではなくて、父性というものが属性として遂に徘徊性を避けられないからだろうなと、納得しておくことにした。『赤き毛皮』(2009)所収。(清水哲男)


July 0772010

 極悪人の顔して金魚掬ひけり

                           柴田千晶

衣姿の娘っ子たちが何人かしゃがみこんで、夜店で金魚掬いを楽しんでいる――などという風情は、今やあまりにも古典的に属すると嘲笑されるかもしれない。しかし、そこへ金魚を掬おうとして割りこんで来た者(男でも女でもよかろう)がいる、とすれば「古典的」な金魚掬いの場面は、甘さから幾分は救われるというもの。「極悪人の顔して」というのだから、その者が極悪人そのものであるわけではない。たとえば、虫も殺さぬようなしとやかな女性であっても(いや、誰しも)、いざ一匹でも多くの金魚を掬いとらんとなれば、身構えも表情も真剣そのものとなるのは当然。それを「極悪人の顔」ととらえたところに、千晶らしい毒を含んだ鋭い視点が生まれた。極悪人に掬われるな! 逃げろ、金魚たち! まともな金魚掬いの情景を詠んだところで、誰も振り向いてはくれない。先般6月の余白句会で、兼題「極」を折り込んで投じられたこの一句、みごと“天”を獲得した。私は旅行中で当日欠席したが、もし出席していれば“天”を投じたに違いない。金魚はその美しさ、奇異な愛らしさなどが観賞され愛玩されるわけだが、いきなり敢えて「極悪人」をもちこんできたことで、句のテンションが上がった。千晶の「鰯雲の不思議な日暮排卵日」(句集『赤き毛皮』)から受けた衝撃は今も忘れがたい。怖い詩人である。第89回余白句会報告(2010)より。(八木忠栄)


January 3012012

 袋綴ぢのヌード踏まるる春霙

                           柴田千晶

末(2月4日)は立春だ。しかし歌の文句じゃないけれど、今年は「春は名のみの」寒さがつづきそうだ。霙(みぞれ)だって降るだろう。句はまことに荒涼たる光景を詠んでいる。作者によれば、場所は横浜の物流倉庫で日雇い仕事をするための人々を運ぶマイクロバスの駐車場だそうである。働き手には女性が多いらしい。そんな場所に、週刊誌の袋綴じページが散乱しており、疲れた女たちが容赦なく霙に濡れた靴で踏んでゆく。男のちっぽけな暗い欲望を満たすためのページを、避けるのも面倒と言わんばかりに踏みつけて行き過ぎる。私はかつて週刊誌の仕事をしていたので、似たような光景は何度も目撃して覚えているが、そのたびにやはり心が痛んだものだった。袋綴じであれなんであれ、そこには作る側のなにがしかの思いが籠められている。けれども、そんなことは当事者だけの感傷にすぎなく、バスを待つ人々は何の痛みも感じることはないのだ。それが人生だ。人さまざま、人それぞれ。霙と泥に汚れた週刊誌の破れたページから、立ち上がってくるうそ寒い虚無感がやりきれない。「俳句界」(2012年2月号)所載。(清水哲男)




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