目覚めると、すぐにコーヒーが飲みたくなる。だから、毎朝インスタントだ。




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February 0622004

 東京に育ち花菜の村へ嫁く

                           杉本 寛

語は「花菜(はなな)」で春。菜の花のこと。「嫁く」は「ゆく」と読ませている。自註に「東京生れ、東京育ちの知人の娘さんが、奈良へ嫁がれた」とある。そして「愛は強しということ」と締めくくっているが、この美しい句の底に流れる作者の心理は、そう単純なものではないだろう。私の場合は娘が外国に嫁ってしまったので、とくにそう感じるのかもしれないが……。そのときの私に強い感慨があったとすれば、愛は強しよりも、良い度胸をしてるなあということであった。句の娘さんもそうだけれど、まったく見知らぬ土地で生涯を暮らす決心をすることなどは、とうてい私にはできそうもない。就職し結婚してから何度か転居はしたが、それも東京の中での話だ。その気になれば他県に住んでも構わない条件にあったときにも、ぐずぐずと家賃の高い東京にへばりついていた。それも、東京の西側ばかりでなのだ。しかし考えてみれば、昔から結婚で新しい土地に移り住むのはほとんどが女性である。男性が経済力を保持している以上、止むを得ないといえばそれまでだけれど、私の観察するところによると、どうも男より女のほうが、本性的に新しい環境への適応力があるのではないかと思う。地域のボランティア活動などを見ていても、総じて女性たちのほうがすっと入っていくし、その後の活動においても活発だ。彼女たちはたいてい結婚でよその土地からやってきているのに、何年かするうちに、もうちゃきちゃきの土地っ子のように振る舞えるのには驚く。だからその意味で、句の娘さんのこともそんなに心配するには及ばないだろう。ましてや、自分の子供ではない。……と思って詠んだとしても、作者の「でもなあ」というどこか割り切れぬ感想が、句に漂っているような気がする。なんとなく、句がハラハラしている。『杉本寛集』(1989・俳人協会)所収。(清水哲男)


February 0522004

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。暦の上では春になっても、まだ寒いこと。「余寒(よかん)」と同義ではあるが、余寒が寒さに力点を置くのに対し、春寒は春に気持ちを傾かせている。「通夜余寒火葬許可証ふところに」(田中鬼骨)と、余寒はいかにも侘しい。掲句は想像句だが、しかし作者は実際の竹を見ているうちに着想したと思われる。いまごろの竹林は「竹の秋」間近で、いちばん葉の繁っているときだから、奥の方は昼なお暗い。しかしどうかすると、繁った葉から洩れてくる日差しがあたって、そこだけが美しく光っていたりする。と、ここまで見えれば、あと「かぐや姫」までの連想はごく自然な成り行きだ。なんだか、自分が竹取の翁にでもなったような気分になってくる。あの光っている竹をそおっと伐ってみれば、背丈わずかに三寸の可愛らしい女の子が眠っているはずだという想像は、外気が冷たいだけに、春待つ心を誘い出す。こんなふうに自然を眺められたら、どんなに素敵なことか、気が安らぐことか。一読して、たえずギスギスしている私はそう思った。『竹取物語』は平安期に、相当に教養のあった男の書いた話とされている。子供にも面白い読み物だけれど、大人になって読み返してみると、全編が当時の権力者への批判風刺で貫かれていることがわかる。単なるわがまま美女の物語ではなくて、かぐや姫は庶民に潜在していた「一寸の虫にも五分の魂」という気概を象徴しているのだ。しかし、体制はいまとは大違い。女性の地位も、現代では考えられないほどに低かった。したがって帝(みかど)の求婚まで断わるとなった以上は、死をもって償わねばならない。心優しい物語作者は、姫を満月の夜に昇天させるという美しいイメージのなかに、姫の自死を悼んだのだった。『日野草城句集』(2001・角川書店)(清水哲男)


February 0422004

 立春の卵立ちたる夫婦かな

                           小宮山政子

だ寒い日がつづくが、季節は少しずつ春に向かって動きはじめる。実際、このところ表を歩いていると、大気が春の気配を告げてくる。寒くても、真冬とは違った、かすかにあまやかな湿気が瀰漫している感じを受ける。さて、立春といえば卵だ。この日にかぎり生卵が立つ、すなわち奇蹟が起きる。中国の言い伝えだが、作者はそれを思い出して、実際に立つかどうかを夫といっしょに試してみた。二人してああでもないこうでもない、ちょっと貸してご覧などと、だんだんに熱中していく姿が目に見えるようだ。そしてついに、卵は見事に立った。成功した。やったと思わずも顔を見合わせたときに、作者は「ああ、これが夫婦なんだ」と感じたのである。稚気に遊べる間柄。考えてみれば、大の大人にあっては、夫婦以外ではなかなか成立しにくい関係だろう。庶民のささやかな幸福感が、唐突に出された感じがする下五の「夫婦かな」に、しっとりと滲んでいる。ところで、雪と氷の研究で知られる中谷宇吉郎博士に、「立春の卵」という随筆がある。ひところの国語の教科書にも載ったそうなので、お読みになった方も多いだろう。戦後間もなくの新聞に、東京やニューヨークで立春に卵が立ったという記事が載り話題になったことがある。これを受けての実験のことを書いた文章だが、それによると卵は必ず立つし、しかも立春以外の日にも立つのだという。つまり奇蹟でもなんでもないことを、博士は証明してみせたわけだ。コロンブスは卵の尻を少し欠いて立てたのだけれど、そんな必要はない。卵の尻には三脚や五徳(ごとく)のような部分があり、その中心を慎重に探していけば必ず立つ……。人間の長年にわたる常識がくつがえされたわけで、この程度の誤った常識なら人の歩みに大過はないにしても、最近の政治的な動きにおける非常識の無理矢理な常識化などは、早めに引っ繰り返しておかないと、とんでもないことになってしまいかねない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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