ある事柄を探して世界中のサイトを駆け巡る。あっという間に一日が過ぎる。




2004ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722004

 橋わたりきつてをんなが吐く椿

                           八木忠栄

語は「椿(つばき)」で春。幻想的にして凄艶。凄絶にして艶麗。伝奇小説の一シーンのようだ。このときに「をんな」は、もちろん和装でなければならない。橋をわたるとは、しばしば逃亡、逃避行のイメージにつながり、わたろうと決意するまでの過程を含めて、息詰まるような緊張感をもたらす。虹の橋をわたるのではないから、わたった対岸に明るい望みがあるわけではない。しかし、何としてもわたりきらなければ、無残な仕打ちにあうのは必定だ。たとえばそんな状況にある「をんな」が、極度な不安の高まりを抑えつつ、ついに「わたりきつて吐く椿」。緊張感が一挙にほどけたときの生理現象であり、血を吐いたかと思いきや、ぽたりと真紅の椿を吐いたところで句になった。こらえにこらえていたものが胸から吐かれるときは、血のようにぱあっと四散するのではなく、あくまでも椿のようにぽたりと落ちるのである。そして作者は、椿の落花のように吐かれた精神的痛苦を指して、椿そのものが吐かれたと見た。橋の袂に白い雪が残っていれば、ますます幻想度は高まる。悲哀感も増してくる。やがて「をんな」が立ち去ったあとには、周辺に椿の木もないのに、花一輪だけがいま落ちたばかりの風情で生々しく残されている。何も知らずに通りかかった人は、狐にでも化かされたのではあるまいかと首をひねるかもしれない……。などと掲句は、読者のいろいろな想像をかきたてて止まるところがない。ただし、どんなに突飛な幻想でも、どこかに必ず現実的な根拠を持っている。だとすれば、掲句の発想を得た現実的根拠とは、どんなものだったのだろうか。そんなことまで考えさせられた。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


February 0622004

 東京に育ち花菜の村へ嫁く

                           杉本 寛

語は「花菜(はなな)」で春。菜の花のこと。「嫁く」は「ゆく」と読ませている。自註に「東京生れ、東京育ちの知人の娘さんが、奈良へ嫁がれた」とある。そして「愛は強しということ」と締めくくっているが、この美しい句の底に流れる作者の心理は、そう単純なものではないだろう。私の場合は娘が外国に嫁ってしまったので、とくにそう感じるのかもしれないが……。そのときの私に強い感慨があったとすれば、愛は強しよりも、良い度胸をしてるなあということであった。句の娘さんもそうだけれど、まったく見知らぬ土地で生涯を暮らす決心をすることなどは、とうてい私にはできそうもない。就職し結婚してから何度か転居はしたが、それも東京の中での話だ。その気になれば他県に住んでも構わない条件にあったときにも、ぐずぐずと家賃の高い東京にへばりついていた。それも、東京の西側ばかりでなのだ。しかし考えてみれば、昔から結婚で新しい土地に移り住むのはほとんどが女性である。男性が経済力を保持している以上、止むを得ないといえばそれまでだけれど、私の観察するところによると、どうも男より女のほうが、本性的に新しい環境への適応力があるのではないかと思う。地域のボランティア活動などを見ていても、総じて女性たちのほうがすっと入っていくし、その後の活動においても活発だ。彼女たちはたいてい結婚でよその土地からやってきているのに、何年かするうちに、もうちゃきちゃきの土地っ子のように振る舞えるのには驚く。だからその意味で、句の娘さんのこともそんなに心配するには及ばないだろう。ましてや、自分の子供ではない。……と思って詠んだとしても、作者の「でもなあ」というどこか割り切れぬ感想が、句に漂っているような気がする。なんとなく、句がハラハラしている。『杉本寛集』(1989・俳人協会)所収。(清水哲男)


February 0522004

 春寒や竹の中なるかぐや姫

                           日野草城

語は「春寒(はるさむ)」。暦の上では春になっても、まだ寒いこと。「余寒(よかん)」と同義ではあるが、余寒が寒さに力点を置くのに対し、春寒は春に気持ちを傾かせている。「通夜余寒火葬許可証ふところに」(田中鬼骨)と、余寒はいかにも侘しい。掲句は想像句だが、しかし作者は実際の竹を見ているうちに着想したと思われる。いまごろの竹林は「竹の秋」間近で、いちばん葉の繁っているときだから、奥の方は昼なお暗い。しかしどうかすると、繁った葉から洩れてくる日差しがあたって、そこだけが美しく光っていたりする。と、ここまで見えれば、あと「かぐや姫」までの連想はごく自然な成り行きだ。なんだか、自分が竹取の翁にでもなったような気分になってくる。あの光っている竹をそおっと伐ってみれば、背丈わずかに三寸の可愛らしい女の子が眠っているはずだという想像は、外気が冷たいだけに、春待つ心を誘い出す。こんなふうに自然を眺められたら、どんなに素敵なことか、気が安らぐことか。一読して、たえずギスギスしている私はそう思った。『竹取物語』は平安期に、相当に教養のあった男の書いた話とされている。子供にも面白い読み物だけれど、大人になって読み返してみると、全編が当時の権力者への批判風刺で貫かれていることがわかる。単なるわがまま美女の物語ではなくて、かぐや姫は庶民に潜在していた「一寸の虫にも五分の魂」という気概を象徴しているのだ。しかし、体制はいまとは大違い。女性の地位も、現代では考えられないほどに低かった。したがって帝(みかど)の求婚まで断わるとなった以上は、死をもって償わねばならない。心優しい物語作者は、姫を満月の夜に昇天させるという美しいイメージのなかに、姫の自死を悼んだのだった。『日野草城句集』(2001・角川書店)(清水哲男)




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