日増しに春めいてくる。私は幸い関係ないけど花粉症の方は憂鬱でしょうね。




2004ソスN2ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1422004

 バレンタインの日なり山妻ピアノ弾く

                           景山筍吉

日は、西暦270年にローマの司教・聖バレンタイン(ヴァレンティノス)の殉教した日。後顧の憂いを絶つため、遠征する兵士の結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対したために処刑されたという。多くの若者たちが、深い絶望を感じた日だったろう。それにしても、ローマは乱暴だった。シーザーの例を持ちだすまでもなく、とにかく派手な殺し合いが横行していた。作者はキリスト者で、戦争の時代もくぐっている。だから、巷間のチョコレート騒ぎから距離を置き、妻の弾くピアノに耳傾けながら、訪れた平和なひとときを楽しみ微笑している。もう一句。「老夫婦映画へバレンタインの日」。ところで、この「山妻(さんさい)」という言い方。「山の神」などと同じく、妻を第三者に向けて紹介するときの謙称、へりくだった表現である。なぜ妻と「山」とが結びつけられてきたのかについては諸説あり、いちばんひどいのは「山の神は不美人の女神」という説だ。美人の女神があれば、他方に不美人の女神もあってよいというわけだろう。伝承では彼女の好物はオコゼだということによくなっていて、これはオコゼが自分より不細工なので優越感に浸れて喜ぶからだと、実に意地悪だ。このことを知っていて使う男がいるとすれば、へりくだるにも程がある。通常ではそれほどの意味はなく、ま、山育ちで洗練されていないくらいのニュアンスだろうが、これでもまだひどすぎるか。しかし、だんだん使われなくなってきたのも事実で、「愚妻」や子供を指す「豚児」などとともに死語になりつつある。妻はむろんのこと、夫にとっても歓迎すべき傾向だ。心にもない過剰なへりくだりは、だいいち健康にもよろしくない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


February 1322004

 全身にポケットあまた春の宵

                           坪内稔典

宵一刻直千金。昔は「千金の夜」などという季語もあったそうだが、これはどうもガツガツしているようでいただけない。「春の宵」はそんな現世利益をしばし忘れさせるほどに、ほわあんとしている感じが良いのだ。ほわあんとすると、なんだか甘酸っぱい感傷に誘われるときもあるし、掲句のように、当たり前といえば当たり前のことに気がついたり感じ入ったりすることもある。言われてみれば、なるほど男の衣服の「ポケット」の数は多い。まさに「全身」がポケットだらけだ。しかし「こりゃ大変だ」というのでもなければ「何故なんだ」というのでもない。「ふうむ」と、作者はひたすらに感じ入っている。そこらへんが可笑しいのだが、この可笑しみは他の季節の宵には感じられない、やはり春ならではのものだろう。くすぐったいような、作者の例の甘納豆句の「うふふふふ」のような……。句にうながされて、外出時の自分のポケットの数を勘定してみた。コートに五つ、ジーンズの上下に九つ、合わせて14個もついている。スーツだったら、もっと多いはずだ。ポケットの中に、またポケットがついていたりする。で、これらすべてを使っているかというと、半分も使っていない。第一、全部使うほどにたくさんの小物を持って歩くことはない。たまに紛失してはいけないメモなどを、ふだんは使わない内ポケットにしまい込むこともあるが、飲み屋でそんなことをするとエラい目にあう。翌朝、朦朧たる意識のうちに、そんなメモがあったことを思い出してポケットを探るのだが、いつも使うところには無いので、一瞬青ざめるのである。逆に、冬場になってはじめてコートを着たときに、何気なくポケットに手を入れると千円札が入っていたりして、一瞬雀躍するのである。『百年の家』(1993)所収。(清水哲男)


February 1222004

 蔦の芽の朱し女は五十から

                           平石和美

語は「蔦(つた)の芽」。春になると、葉の落ちた黒い蔓から赤い芽や白い芽がふき出てくる。生長も早い。そのたくましい活力を称揚して、他の草木の「ものの芽」と区別する一項目として立てられたのだろう。ちなみに、芍薬や菖蒲の芽なども別項目立てである。掲句の中身は、そうした季語の本意によく適っている。見かけたのは偶然にしても、蔦の芽の「朱」を目にしたときに、こだわっていた何かが嘘のようにふっ切れたのだ。赤い小さな芽から、いわば生きていく勢いをもらったのである。とても素直に、そうだ「女は五十から」なんだと納得できたのだった。単純に解釈すればこういうことだが、むろんこの心境を得るまでには、それまでの気持ちの葛藤の整理がほぼなされていなければならない。ただもう一歩踏み出しかねているところもあって逡巡するうちに、蔦の芽ぶきに出会い、一気に整理がついたということだろう。いや、整理をつけたと言うべきか。自分で自分の葛藤に決着をつけるときには、すでにほとんど気持ちの方向は固まっていても、掲句のように何かのきっかけや弾みによって最終的に決めることが多い。人間の面白いところだ。句だけでは、作者の思い惑っていたことが何であるかはわからない。「五十」とあるので、年齢に関係する生活設計上の何かなのだろうが、それが何であれ、読者も作者同様に素直に「女は五十から」という断言に賛成できる。そこが、掲句の手柄である。「蔦の芽」の生命力が、まっすぐに断言の後押しをしているからだと思う。『桜炭』(2004)所収。(清水哲男)




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