三鷹市の美術館は65歳以上は無料である。はじめて、この特権?を行使した。




2004ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1922004

 伸びるだけ伸びる寿命へ納税期

                           有馬ひろこ

定申告の季節が巡ってきた。「納税期」を季語として採用している歳時記があるかどうかは知らないが、当サイトでは春に分類しておく。私などフリーランサーや自営業者にとっては、まことに憂うつな時期である。申告用紙を埋めていく煩雑さもさることながら、埋めていくうちに明らかになってくる納税額を直視するのが辛いからだ。掲句が示すように、高齢になればなるほど、この辛さはいっそう身に沁みるはずである。もうほとんど働けなくなって収入が激減したとしても、とにかく日本のどこかに定住して息をしているかぎりは、それだけで、なにがしかの税金は収めつづけなければならない。句は皮肉っぽくそのことを告げているわけだが、もはや皮肉を言う元気すらない人も大勢いるのだ。納税に関しては、むろんサラリーマンでも事情は同じことだけれど、多くは会社が書類を埋めてくれているので、納税額は同じだとしても、フリーランサーなどよりも辛さは抽象的ですむ場合が多いだろう。「痛いっ」と感じるよりも「仕方がない」と思う人が大半なのではあるまいか。申告書を書いていると、低所得者には言いがかりとしか思えないような税項目もあって、いちいち腹が立つ。それでも日本は自己申告制だから民主的なんだよと役人は言うけれど、最近では、いっそのことヨーロッパのような賦課税方式のほうが良いと思うようになってきた。そのほうが、さっぱりする。オカミの査定で税額が決まるのは確かに民主的ではないかもしれぬが、このシステムも運用次第だから、一概に悪いとは言えないのではないか。……などと愚痴を言っていてもはじまらない、ですね。憂うつな作業が、もうしばらくつづく。江國滋『微苦笑俳句コレクション』(1994)所載。(清水哲男)


February 1822004

 受験期や深空に鳥の隠れ穴

                           岩淵喜代子

語は「受験」で春。「大試験」の項目に分類しておく。さて、どんな句集にも、いくつかの難解な句が含まれている。今日は、あえてチャレンジしてみたい。しばし、それこそ受験生のように考え込んでしまった句だ。が、チャレンジしたからには答案を白紙で出すわけにもいかないので、一応の解答らしきものを書いてはおくけれど、正解の自信はほとんどない。まず、「深空」で想起される春の鳥といえば、ヒバリだ。鳴きながら真っすぐに舞い上がり、空高くほがらかに囀るが、地上からその姿を認めることはなかなかできない。まるで「隠れ穴」でもあるかのように、彼らは深空に姿を没してしまうのである。では、このことと受験との関係をどう考えればよいのだろうか。ここが思案のしどころだ。そこで「受験期」の「期」に注目して、詠まれているのは自分や身内の受験のことではなく、もっと社会的なひろがりを持った「受験シーズン」一般の現象を指した句だと結論づけた。受験から何歩か引いた醒めた目で、この季節をとらえているのだと……。そう考えると、こうなる。すなわち、この季節には大勢の受験生が志望校を目指して、巣の中のひな鳥たちのように押し合いへし合いしながら、競争に励む。学校の受験会場に集まってくる子供たちの姿には、そんな感じがつきまとう。が、ほんのひとときの受験期の熱気が去ってしまうと、いったい彼らはどこへ行ってしまったのかと思われるほどに、後には何も残らない。学園には、ただいつも通りの生徒や学生の姿が見られるだけなのだ。巣立っていった「受験生」という鳥たちは、みんな深空の隠れ穴にでも入ってしまったのではないのか。と、私の解釈はここらへんまでなのだが、どんなものでしょうか。やっぱり、下手な考えでしょうか。でもこんな具合に、たまには解釈に四苦八苦するのも、頭の体操にはいいですね。ひとつどなたか、名解釈をお願いします。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


February 1722004

 春水に歩みより頭をおさへたる

                           高浜虚子

語は「春水(春の水)」。春は降雨や雪解け水などで、河川はたっぷりと水を湛える。明るい日差しのなかで、せせらぎの音も心地よく、ちょっと足を止めてのぞきこんでみたくなる。水中の植物や小さな魚たちを見ていると、心も春の色に染まってくるようだ。小学生のころから、私は春の川を見るのが好きだった。だから、こういう何でもないような句にも魅かれるのだろう。実際、この句は何でもない。水の様子をのぞこうとして川に近づき、思わずも半ば本能的に「頭(ず)おさへた」というだけのことにすぎない。「おさへた」のは、頭に帽子が乗っていたからだ。春先は、風の強い日が多い。したがって、飛ばされないようにおさえたのだろうと読む人は、失礼ながら読みの素人である。そうではなくて、このときに風は吹いていなかった。ちっとも吹いていないのに、そしてほんの少し頭を傾けるだけなのに、無意識のうちに防御の姿勢があらわれてしまった。そのことに、作者は照れ笑い、ないしは微苦笑しているのだ。帽子をかぶる習慣のある人には、どなたにも同じような覚えがあるだろう。この笑いのなかに、春色がぼおっと滲んでいる。このような無意識のうちの防御の姿勢は、程度の差はあれ、日常生活のなかで頻繁にあらわれる。転びそうになって両手を前に出したり、ぶつかりそうになって飛び退いたり……。しかし、結果的には過剰防衛だったりすることもしばしばだ。私などはすぐに忘れてしまうが、作者は忘れなかった。句作の上において、この差は大きいのかもしれない。『虚子五句集・上』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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