February 202004
遺失物係の窓のヒヤシンス
夏井いつき
季語は「ヒヤシンス」で春。忘れたのか、落してしまったのか。無くしたものを探してもらうために、「遺失物係」の窓口に届け出に行った。と、殺風景な室内とはおよそ不釣り合いなヒヤシンスが生けられていた。なんと風流な……。心なごんだ一瞬だ。自分が無くしてしまったものと、自分が思ってもみなかったものの存在との取り合わせが面白い。失せ物が出てくるという保証は何もないけれど、このヒヤシンスによって、作者はなんとなく明るい期待を持てたことだろう。作者の遺失物も、思いがけないところに存在しているのは確かなのだから。忘れ物といえば、いまだに冷汗ものの大失敗を思い出す。学生時代に、めったに乗ったことのないタクシーに乗った興奮からか、同人誌のために集めた仲間の原稿の入った紙袋を忘れて降りてしまった。はっと気がついたときには、タクシーは既に走り去っており、どこの会社のタクシーかもわからない。むろん、ナンバーなんて覚えているわけもない。真っ青になった。金で買い戻せるものならばともかく、みんなの苦労の結晶である生原稿である。謝ったとて、それですむ問題ではない。どうしようか。といっても名案はなく、下宿の電話を借りて、電話帳を頼りに片端からタクシー会社に問いあわせるしかなかった。仲間には伏せたまま、食事もしないままで下宿に待機すること一日。一社から電話があり、それらしき紙袋を保管しているので確認に来いという。そのときの嬉しかったこと。遺失物係の窓口に、すっ飛んで行ったのはもちろんである。係員が無造作に出してくれた紙袋が、本当に輝いて見えたっけ。助かった。あまりの嬉しさに、窓口の様子などは何一つ覚えていない。そんなわけで、掲句の作者が遺失物を受け取りに行ったのではなく、探してもらうために行ったことがすぐにわかった。『伊月集』(1999)所収。(清水哲男)
April 182008
銀河系のとある酒場のヒヤシンス
橋 間石
酒のおかげでいろいろ乗り切ってこられたと大酒呑みだった父は酒への感謝をよく口にした。負け戦に駆り出されて爆弾の下を駆けずり回り、戦後は農地改革で家が崩壊し、いくつか職を変え、伴侶である僕の母は長患いで入院を繰り返し、馬鹿息子はいつも逆らって父を悩ました。酒が父のストレスのはけ口だった。俺が飲めなくなったらそんときは終わりだな。その言葉どおり飲めなくなってすぐお別れがきた。今現世の我らが飲んでいるところが銀河系の地球の日本のとある酒場。そういう意味ともうひとつ、夜空を見上げて銀河系の中に彼岸の人たちが集まる酒場を思ってみてもいい。どちらにしてもヒヤシンスなんか置いてあるんだからちょっと粋な酒場だ。僕などいつも飲む酒場はゴキブリや鼠が出る喧騒の安酒場。銀河系というより地獄の一丁目のような趣き。(作者の間石の間の正字は門構えの中に「月」)『季別季語辞典』(2002)所載。(今井 聖)
February 092012
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
福田若之
ヒヤシンスは早春を代表する花。どこか冷たい感じがするのは名前の語感と色と水栽培で育てた経験によるのだろうか。忙しい毎日に心追われる身に「しあわせがどうしても要る」というひたむきなフレーズが痛く感じられる。ひらがなで書かれた「しあわせ」の淡さと対照的に「どうしても」という頑是無い物言いが、格言的フレーズに陥る危険からこの句を掬っている。ヒヤシンスはいくつかある花の候補から恣意的に選ばれた印象だが、下五に置くと語調良く流れすぎるが、上五にあると紫色の小花を集めて凛と直立するヒヤシンスがまずイメージとして浮かび、あとの呟きが自然に滑りだしてゆく。「かもめの両翼あたたかく空に在る」「甲板の風がくすぐったい春だ」みずみずしい感覚が素敵な91年生まれの俳人である。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)
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