春は別れの季。拙詩「僕らは軽く手をあげ/死ぬまで別れられるのである」。




2004ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2722004

 春日傘女の手ぶらなかりけり

                           森眞佐子

語は「春日傘」。言われてみれば、なるほど。外で見かける女性に、手ぶらの人はいない。少なくとも、バッグ一つは持っている。女性である作者は、春日傘を持ち歩いているうちに、あらためてそのことに気づき、ちらりと苦笑している図だ。何でもないような句だが、こうしたことに気づく心、その動きが作句の世界を広げていくことにつながるのだと思う。話は飛ぶけれど、私はよく道を聞かれる。旅先でも聞かれる。一度遊びに行ったロサンゼルスの街中で聞かれたときには、心底たまげた。そのときに、何故しばしば尋ねられるのかと真剣に考えてみた。聞く人の立場になってみれば、当方を地元の居住者だと思うから聞くのだろう。では、なぜ地元民だと判断されるのか。どこへ行くにもラフなジーンズの格好だからかなとも思ったが、それだけでは決め手にはならない。で、いろいろと考えているうちに、やっとそれこそ気がついたのだった。そうだ、手ぶらだからなんだ、と。よほどのことがないかぎり、いつもできるだけ手ぶらで通してきた。何かを手に持つことが苦手というか徹底的に嫌いなのである。旅先でも、ホテルに荷物を全部放り込んで、何も持ち歩かない。たまにカメラを持つこともあるが、それも鬱陶しいのでなるべく避ける。すると、他人にはどう見えるか。髪の毛はぼさぼさだし、いかにも近所の家からちょっと用事で出てきたように写るのだと思う。だから、聞かれるのだ。と、この結論に達したときは、なんだか大発見でもしたように嬉しくなった。いやあ、男に生まれて良かったなあ。掲句を読んで、また嬉しくなっている。どこか変でしょうか。『花真珠』(2003)所収。(清水哲男)


February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)


February 2522004

 水温む今月中に返事せよ

                           岩城久治

語は「水温(ぬる)む」で春。気の進まない用件への「返事」を催促された。それも「今月中に」と、ぴしりと期限を切られてしまったのである。「と、言われましてもねえ、もごもごと口籠るしかない」とは、作者のコメントだ。「水温む」のゆるやかな時間の流れのなかに、「返事せよ」の性急な時間つき請求を、直球のように投げ込んだところが面白い。が、面食らったというのでもなく、観念したというのでもなく、やっぱりどうしようかとカレンダーを眺めつつ逡巡する作者。でも、自分で困っているわりには、どこかまだ余裕のある感じで詠んでいる。返事を急がれてもそんなに切羽詰まった中身の用件じゃないからだろうが、しかし、この余裕のほとんどは「水温む」の季語があってこそ感じられるものだ。「水温む」のおかげで、独特の味わいのする句になっている。一見、上五の季語は他の似たようなそれと、いくらでも交換可能な感じだ。しかし、それはできないのである。ちなみに「水温む」の代わりに、たとえば親戚の季語「春の水」や「雪解水」などと置き換えてみれば、よくおわかりいただけるだろう。いずれの場合にも、「今月中に返事せよ」がとても刺々しい言い方に変質してしまう。私には「春の水」だといかにも底意地が悪そうな物言いに写るし、「雪解水」だと矢の催促のニュアンスがぐっと濃くなる感じを持つ。これらでも句にならないとは言わないが、一読者としては掲句の微苦笑の味がいちばん好きだし、いちばん美味しい。俳人(表現者)は読者に、いつも味の良いサービスの提供に心を配っていなければ……。軽い意味でも重い意味でも、私はそう思っている。「俳句」(2004年3月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます