近所で四つのマンション建設中。と思ったら、早速一足先にコンビニが開店。




2004ソスN2ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2822004

 古代の夢脈打たせつゝ蛇覚めぬ

                           下重暁子

の季語に「蛇穴を出づ」がある。冬眠していた蛇が、暖かくなって穴から這い出してくることを指す。揚句には「蛇覚めぬ」とあるから、這い出す前の目覚めの状態を言っているわけで、まずはここが面白いと感じた。そうなのだ、行動の前には目覚めがなくてはいけない。目覚めた蛇がすぐに出てくるのかどうかは知らないけれど、蛇にだって寝起きの悪いのもいるだろう。そんな奴はなかなか出てこなかったりして、などと空想に遊んでみるのも楽しい。それはともかく、この蛇が見ていた夢は、古代の夢だ。すなわち、洋の東西を問わず、正邪いずれの意味にせよ、蛇が大いに珍重されていた時代の夢を見ていた。日本でも古代から、山の神、水の神、雷神としての蛇の信仰が伝えられており、記紀には八岐大蛇についての物語や、大和の御諸山の祭神・大物主命が蛇体であったことが記されている。そんな時代の夢を見たものだから、この蛇は興奮して身体を「脈打たせつゝ」目覚めたのだった。天下を取ったような気分だったろう。地上に出ても、そこには何も怖いものはない、なんだって可能なんだという思い……。が、掲句の味わいはここから先にあるのであって、徐々に覚醒の進んできた蛇が、やがて「なんだ、夢だったのか」と失意に落ちる刻がやってくるのだ。これから、古代とは大違いの忌み嫌われる世界へと、出ていかなければならない。その哀れを言わずに、一歩手前で止めたところに妙手を感じる。作者は、知る人ぞ知るNHK元アナウンサー。うまいもんですね。なお、掲句を当歳時記では、便宜上「蛇穴を出づ」に分類しておきます。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)


February 2722004

 春日傘女の手ぶらなかりけり

                           森眞佐子

語は「春日傘」。言われてみれば、なるほど。外で見かける女性に、手ぶらの人はいない。少なくとも、バッグ一つは持っている。女性である作者は、春日傘を持ち歩いているうちに、あらためてそのことに気づき、ちらりと苦笑している図だ。何でもないような句だが、こうしたことに気づく心、その動きが作句の世界を広げていくことにつながるのだと思う。話は飛ぶけれど、私はよく道を聞かれる。旅先でも聞かれる。一度遊びに行ったロサンゼルスの街中で聞かれたときには、心底たまげた。そのときに、何故しばしば尋ねられるのかと真剣に考えてみた。聞く人の立場になってみれば、当方を地元の居住者だと思うから聞くのだろう。では、なぜ地元民だと判断されるのか。どこへ行くにもラフなジーンズの格好だからかなとも思ったが、それだけでは決め手にはならない。で、いろいろと考えているうちに、やっとそれこそ気がついたのだった。そうだ、手ぶらだからなんだ、と。よほどのことがないかぎり、いつもできるだけ手ぶらで通してきた。何かを手に持つことが苦手というか徹底的に嫌いなのである。旅先でも、ホテルに荷物を全部放り込んで、何も持ち歩かない。たまにカメラを持つこともあるが、それも鬱陶しいのでなるべく避ける。すると、他人にはどう見えるか。髪の毛はぼさぼさだし、いかにも近所の家からちょっと用事で出てきたように写るのだと思う。だから、聞かれるのだ。と、この結論に達したときは、なんだか大発見でもしたように嬉しくなった。いやあ、男に生まれて良かったなあ。掲句を読んで、また嬉しくなっている。どこか変でしょうか。『花真珠』(2003)所収。(清水哲男)


February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)




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