March 082004
枯れ果ててゆくも四温の最中なり
大場佳子
季語は「四温(三寒四温)」。古来、歳時記では冬の項に分類してきたが、暦の上での冬の終わりの時期よりも、むしろ立春後に、多くこの現象が見られるのではあるまいか。三日寒い日がつづいたかと思うと、四日暖かい日がつづく。この繰り返しのうちに、だんだん本格的な春が近づいてくる。昨今の東京あたりでは、ちょうどそんな感じだ。この句が載っている句集を見ても、前後には春の句が配されていることから、作者は明らかに早春の季語として詠んでいる。さてこの季節、暖かい日がつづくようになると、人の目は春を告げる芽吹きであるとか花のつぼみであるとか、そういう物や現象に向かいがちになる。それが人情というものだろう。だが、作者は一方で、この季節だからこそ、完全に「枯れ果ててゆく」ものたちがあることに注目したのだった。ひっそりと、誰にも顧みられることのないまま姿を消していく存在へのまなざしは、単に植物だけを見ているのではないようにも思われる。「春よ春よ」と明るいほうばかりを見つめたがる人間界にもまた、ひそやかな死は常にいくらでも訪れてくるのだからだ。といって作者は、一般的に世の人情を風刺しているのではない。そんなつもりは、一かけらもないと思う。あくまでもみずからの胸の内に、ふっとこんな気持ちが兆したのであり、それを直截に詠んだところに、嫌みのない句の世界が静かに成立したと読む。この句を知って、あらためて庭などを眺めてみたくなる人は少なくないだろう。そういう力のある句だ。『何の所為』(2003)所収。(清水哲男)
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