March 092004
早わらびの味にも似たる乙女なり
遠藤周作
季語は「早わらび(さわらび・早蕨)」で春。「蕨」の項に分類。題材にした詩歌では、ことに『万葉集』の「石走る垂水のうえのさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)が有名だ。芽を出したばかりの蕨は、歌のようにいかにも初々しい緑の色彩で春を告げる。その意味で、この歌は完ぺきだ。あまりにも完成しすぎているために、今日でも「早蕨」を詠むとなると、どうしてもこの歌がちらりと頭をかすめてしまう。歌が詠まれてから千数百年も経ているというのに、いまだ影響力を持ちつづけているのだから、詩歌世界の怪物みたいな存在である。だから後世の人々はそれぞれに工夫して、志賀皇子の世界とは一線を画すべく苦労してきた。なかには現代俳人・堀葦男のように「早蕨や天の岩戸の常濡れに」と詠んで、志賀皇子の時代よりもはるか昔にさかのぼった時間設定をして、オリジナリティを担保しようと試みた例もある。小説家である作者もそんなことは百も承知だから、故意に「色」は出さずに「味」で詠んだのだと思われる。「乙女(おとめ)」を形容するのに「味」とはいささか突飛だが、そこは周到に「味にも」とやることで、句には当然「色」も「香」も含まれていることを暗示させている。早蕨のほろ苦い味。そんな初々しい野性味を感じさせる「乙女」ということだろう。そよ吹く春の風のように、そのような若い女性が眼前に現れた。そのときの心の弾みが詠まれている。が、不思議なことに、句からは女性その人よりも、むしろ目を細めている作者の姿のほうが浮び上ってくる気がするのは何故だろうか。金子兜太編『各界俳人三百句』(1989)所載。(清水哲男)
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