中東の混迷は深刻だ。どうすべきなのか誰にもわからない。国連頼みしかない。




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March 2532004

 人の目の真つ直ぐに来る花の中

                           廣瀬直人

の句は数々あれど、これは異色作だ。花見客でにぎわう場所か、あるいは桜並木の通りでもあろうか。ゆったりとした気分で作者が花を賞でながら歩いているうちに、ふと前から来る人の何か周囲の人たちとは違った気配に気がついた。思わず見やったその人は、桜を楽しむ気などさらさらないといった雰囲気で、ひたすら「真つ直ぐ」にこちらに向かって歩いてくるのだった。その様子を「人が真つ直ぐに来る」と言わずに、「人の目」が来ると詠んだところが実に巧みだ。思い詰めたような顔つきだったかもしれないが、その「顔」でもなくて「目」に絞り込んだ凝縮力の鋭さには唸ってしまう。行き交う人々の「目」があちこちの花にうつろっているときだけに、その人の前方を見据えて動かない「目」が際立って見えるのである。「人」でもなく「顔」でもなく、ほとんど「目」のみがずんずんと近づいてくる。言い得て妙ではないか。その人は、べつに思い詰めていたわけではなく、単に道を急いでいただけなのかもしれない。というのも、我が家の近くに東京では桜の名所に数えられる井の頭公園があって、満開の時期にはたいへんな人出となる。公園に通じる舗道はどこも狭いので、押し合いへし合い状態だ。いつだったか、そんな人込みの波を逆流する格好になって、用事のために急いで通ろうとしたたことがあった。しかし、そう簡単には前へ進めない。人並みをかきわけかきわけ、時には突き飛ばしたくなる思いにかられながら急いだ私の「目」は、まさに掲句の「人の目」に似ていたかもしれないと苦笑させられたからなのだ。井の頭の花は、今週末が見頃となる。どうか「目」だけで歩くような急用などが持ち上がりませんように。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


March 2432004

 梅散るやありあり遠き戦死報

                           馬場移公子

書に「亡夫、三十三回忌」とある。作者は結婚四年目にして夫を失い、養蚕業の旧家を守って生涯を秩父山峡の生家に過ごした。こうした履歴は知らなくても、句は十分に鑑賞に耐え得るだろう。なによりも「ありあり遠き」の措辞が胸を打つ。「戦死」の報せが届いた日のことは、いつだってつい最近のことのように思えていたのが、こうして「三十三回忌」の法要を営むことになり、夫の死がもはやはるかな昔のことになったと思い知らされたのだ。認めたくはないが、これが容赦ない時の流れというものである。この現実にいまさらのように、あらためて「ありあり遠き」と噛み締める作者の孤独感は、いかばかりだったろうか。夫亡き後も、毎春同じ姿で咲いては散ってきた山里の梅の花が、今年はことのほか目にしみる。日本では武士や戦士の死を桜花の散り際に例えてきた伝統があるけれど、残された者にとってはとてもそのようには思えない。例えるならば、むしろ人知れずひっそりと散ってゆく梅花のほうにこそ心は傾くだろう。その意味からも掲句の取り合わせは、読者の心にしみ込むような哀感を醸成している。古い数字だが、1949年の厚生省調査によると、大戦による全国の未亡人数は187万7161人、そのうち子の無いもの31万9402人、有子未亡人で扶養義務者の無いもの29万6105人。生活保護該当者22万7756人。無職者44万6545人。未亡人会数2065となっている。現在ご存命でも80代、90代という年代が大半で、187万余の半数以上の方々は既に鬼籍に入られたことだろう。この数字ひとつを見ても、なお戦争を肯定できる人が何処にいるだろうか。『峡の音』(1958)所収(清水哲男)


March 2332004

 春の山のうしろから烟が出だした

                           尾崎放哉

語は「春の山」。晴天好日。ぼおっと霞んだような春の山の「うしろから」、「烟(けむり)」がこれまたぼおっと立ち昇りはじめた。ただそれだけの写生的描写だが、どことなくユーモラスで、さもありなんと頷ける。春の山のたたずまいをよく知っていなければ、なかなかこういう句は出てこないだろう。ところで放哉の句は、ご存知のように「自由律俳句」と呼ばれてきた。いわゆる「五七五」の音律から外れた句だ。若き日の放哉は「護岸荒るる波に乏しくなりし花」などの有季定型句を作っていたのだが、大学卒業後間もなく自由律に転じている。むろん、内的な必然性があってのことだろう。自由律の論客でもあった荻原井泉水は、その必然性について次のように書いている。「われわれは旧来の俳句において俳句という既成の型を与えられていた。それに当てはめて句作していたので、俳句という詩のリズムをさながらに表現することが許されなかった。それは俳句の形式に捉すぎてその精神を逸していたのであること、在来の俳句に付随している約束や形式は俳句が詩としての自覚を得るまでの揺籃に過ぎない。世間の俳人はその約束を本性と混同し、形式を内質と誤解している」。この意見はいまなお通用するであろうが、私が昔から気になっているのは、自由律と言いながらも、ほとんどの自由律句に音律的な自由が感じられない点だ。井泉水も放哉も山頭火も、そしておびただしく書かれたプロレタリア俳句も、読めば読むほどに、みんなリズムが似ている。そこには、「もう一つの定型」としか言いようのない音律に縛られた不自由さが感じられてならないのだ。私流には、これらはすべて「訥弁的定型句」ということになる。最近注目を集めた住宅顕信にしても、まったく同じ音律で書いている。どうして、こんなことになってしまったのだろうか。俳句界七不思議の一つに入れておきたい。『尾崎放哉句集』(1997)所収。(清水哲男)




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