半年ぶりの余白句会。兼題は「啓蟄・蝌蚪・亀鳴く・四月馬鹿」と春うらら…。




2004ソスN3ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2832004

 オメデタウレイコヘサクラホクジヤウス

                           川崎展宏

書きに「卒業生 札幌で挙式」とある。その祝いのために、実際に打った電文だろう。そちらの開花はまだだろうが、桜前線は確実に「ホクジヤウ(北上)」しつつあるからね。それも「レイコ」あなたに向かってと、教え子の新しい門出を祝福している。咲いていない桜を素材にして、しかし間もなくそれを咲かせる自然の力がひたひたと寄せていく状況を配して、祝意を表現してみせたところが見事だ。芸の力と言ってもよい。むろんこのときに、北上している桜前線の動きは作者の新婦に対する気持ちのそれと重なっている。今と違って昔の電報はすべて片仮名表記だったが、下手に今風に平仮名や漢字が混ざっている電文よりも、片仮名だけのほうがかえって清潔感があって、句の中身にふさわしいと思う。ただし、この書き方は作者の特許みたいなもので、第三者には使えないところが難点と言えば難点か(笑)。句集の配列から見て、昭和30年代末ころの作と思われる。そんなに電話も普及していなかったし、電話があっても長距離料金は高価だったので、冠婚葬祭用ばかりではなく、何かというと緊急の用件には電報を使った。郵便局の窓口に行くとみどり色の頼信紙なる用紙がおいてあり、なるべく文字数を少なくして安上がりにすべく、何度も指を折っては電文を思案したものだ。学生ならたいていが親への金の無心だったけれど、一般的に最もひんぱんに利用された用件は親兄弟や親類縁者の病状の悪化を告げるものだったろう。「チチキトク」などというあれである。だから電報が届くと、誰もがどきりとした。とくに夜間に配達されたりすると、開く前に心臓が縮み上がる思いがした。そんな時代は遠く去ったと思っていたら、最近では高利貸し業者が督促のために頻繁に使うのだという。祝儀不祝儀と受け取る側の心持ちが定まっている場合を除いては、いつまでも電報は精神衛生上よろしくないメディアのようである。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


March 2732004

 春まつり老いては沖を見るばかり

                           大串 章

語は「春まつり(春祭)」。春におこなわれる祭りの総称。農耕のはじめにあたって作神を迎え五穀の豊穰を祈り、疫病などを祓うための祭りというのが本義である。句の自註に、こうある。「漁村の近くで祭の法被を着た子供達に出会った。菓子袋をもち、祭の帰りらしかった。道端に坐って海を見ていた老人のことを思い出した」。句からこの背景までは読み取れないが、老人の遠い目が印象的だ。同じように「沖」を見るとしても、若者よりは老人のほうがはるかに遠い目をする。何かを思い出しているような目、何かを考えているような目。もっと言えば、老人の目は遠くをはっきり見ようとする目ではないだろう。ただ遠くに視線を送ることによって、むしろ内面を見つめるためと言おうか、来し方のあれこれを反芻するためと言おうか、あるいは逆に何も思わないで時間をやり過ごすためなのか。傍目には、そんなふうに写る。少年時代に友人の祖母が、いつも縁側の同じ場所に坐って、物言わず遠くを見ていたことを思い出した。何歳くらいだったのだろうか。とにかく昔からずっとお婆さんだったような小さな人で、しょっちゅう遊びに行っていたけれど、一度も声を聞いたことがなかった。物静かな印象を通り越し、なんだか生ける置物のような感じがして不気味に思えたこともある。その人の遠い目は、山国なので山なみに向けられていたのだったが、何かを見ようとしている目でないことは、私のような子供にもよくわかった。句の老人も、きっとそんな目をしていたにちがいない。そういえば、若い頃から老人役を好演した笠智衆は遠い目をする名人だった。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)


March 2632004

 花ぐもり燃えないゴミの中に鈴

                           富田敏子

語は「花ぐもり(花曇)」。咲きはじめてからの東京は毎日が花ぐもり状態で、気温も低く、どうも気分がすっきりしない。花々の彼方に青い空が透けて見えるような晴天が、待ち遠しい。そんなちょっと気の重い朝、作者は「燃えないゴミ」を集積所に出しに行った。ゴミ袋の中では、捨てようと決めた「鈴」が鳴っている。澄んだ音色ではなく、他のポリ容器などに圧されて濁ったような音がしている。擦れ違う人があっても鈴とは気づかないかもしれないが、作者は知っているので、心の曇る思いがしているのだろう。何か記念の鈴だろうか。あるいは土産にもらったような鈴かもしれないけれど、女性が鈴を捨てる気持ちはそう単純ではないような気がする。べつに場所塞ぎになるわけじゃなし、捨てなくても仕舞うところはいくらでもある。なのに捨てようとしたのは、手元に置いておきたくない何らかの心理的事情があったからだろう。そのあたりを考え合わせると、掲句はなるほど花ぐもりに気分が通じていて、味わい深い句だ。ゴミを出すという日常的な行為にも、それぞれの人のドラマが秘められている場合もあるということである。先日私は、かつて熱中していた8ミリ映画用の編集機を捨てた。置いてあった棚が溢れてきたので処分したわけだが、いくらもう使わないとわかってはいても、愛用していた道具を捨てるのは辛い。集積所に置いたときに一瞬逡巡する気持ちが起きたが、目をつむるようにして、立ち去った。なんだか薄情にも置き去りにしたような、不快な余韻がしばらく残った。掲句の作者も、そうだったろうか。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)




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