三月が終わる。風邪のせいもあり、あまり調子の良くない月だった。四月は如何。




2004ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3132004

 蝌蚪うごく火星に水のありしかな

                           八木幹夫

語は「蝌蚪(かと)」で春。「おたまじゃくし」のこと。時事句と言ってよいだろう。今月はじめにアメリカ航空宇宙局(NASA)の科学者チームが、無人探査車『オポチュニティー』が火星上にかつて生命を支えるのに十分なほどの水が存在していた証拠を発見した、との発表を受けている。残念なことに生物体が存在した痕跡は見つからなかったそうだが、火星人を空想した昔から、地球とは違う星の生命体に対する私たち人間の関心は高かった。存在する(した)とすれば、いったいどんき生き物なのだろうか。人間に似ているのか、それとも植物のようなものなのか、あるいはまた地球上の諸生物とはまったく形状の異なったものなのか。等々、空想や想像をしはじめたらキリがない。でも最近では、火星には生命体の存在できる物質的諸条件は無いという説が有力視されていたために、なんとなく皆がっかりしていた。そこに、今度の発表だ。再び私たちの想像力は息を吹き返し、好奇心に火がつく恰好になった。そこらへんの「蝌蚪」を見ている作者の頭にも、それがあったに違いない。自然に火星の生物へと思いが飛び、存在したとすれば、たとえばこんな姿だったのだろうかと、ぼんやりと想像している。このときに「蝌蚪泳ぐ」ではなく「うごく」としたところが、秀逸だ。「泳ぐ」などではあまりに地球的で人間臭い表現になってしまう。そうではなくて、火星の見知らぬ生物は地球人が見たこともない不気味な「うごき」をするはずなのだ。だから、この句では「うごく」しかない。いずれにせよ、こうした新しい話題を取り込む俳句は少ないということもあり、貴重な一句として書き留めておきたい。第52回「余白句会」(2004年3月28日)出句四句のうち。(清水哲男)


March 3032004

 大空に唸れる虻を探しけり

                           松本たかし

語は「虻(あぶ)」で春。虻の名は、羽の唸り音からつけられたという。種類は多いが、代表的なのは花の蜜や花粉を栄養源とする「花虻」と牛馬やときには人の血を吸う「牛虻」だ。こいつに刺されると、かなり痛む。長い間、鈍痛が残ったような記憶がある。けれん味の無い句だ。若い頃にはこの種の句は苦手だったが、やはりトシのせいだろうか、こういう世界にも魅かれるようになってきた。どこかで虻の唸りがするので、どこにいるのかと音のする方向を目で追っている。でも、虻の姿はなかなか認められず、視界には「大空」が入ってくるだけだ。ただ、それだけのこと。しかし作者が、「青空」でもなく「春の空」などでもなくて、ほとんど無色にして悠久な「大空」と言い放ったところに、手柄があるだろう。大空のなかに、作者といっしょに溶け込んでしまうような駘蕩感を覚える。春だなあ。と、ひとり静かに、しかし決して孤独ではない、春ならではの大気のたゆたいを味わえる満足感とでも言おうか。理に落ちず俗に落ちない句境が素晴らしい。というところで、話はいきなり俗に落ちるが、少年時代にはずいぶんと虻に申し訳ない仕打ちをしたものだった。農村で、牛を飼っている家が多かったせいもあって、「大空」に探すどころではなく、この季節になるとたくさんの虻がそこらじゅうに飛んでいた。だから刺された体験もあるのだし、憎々しい存在だったから、我ら悪童連は復讐と称して叩き潰してまわったものだ。そのうちに単に殺すだけでは飽き足らなくなって、誰の発案だったか、油断を見澄ましては生け捕りにする作戦を展開。捕まえた奴の尻に適当な長さの藁しべを突っ込んでは、空に投げ上げるという暴挙に出たのだった。投げ上げると、最初は狂ったように飛び回り、しかしやがて力尽きて落ちてくる。敵機撃墜である。いま思えば、可哀想なことをしたものだと心が疼く。まったくもって、子どもは残酷である。『新俳句歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


March 2932004

 さへづりや馬穴で運ぶ御御御付

                           馬場龍吉

語は「さへづり(囀)」で春。まず、字面が目を引く。「馬穴」は「バケツ」と容易に読めるが、「御御御付」とは、はてな何と読むのだろう。と、読者を立ち止まらせたら、作者の勝ちである。正解は「おみおつけ」で、味噌汁のことだ。たいていの辞書には、この漢字表記も載っている。語源には大きく分けて二説あるようで、一つは主食に付ける汁椀だから「御付」と言っていたのが、どんどん丁寧に「御」「御」を付けるようになったという女房言葉説。もう一つは、「御御」は本来「御実」と書くのが正しく、「御実」は味噌汁の具を意味するという説だ。私にはどちらでもよろしいが、わざわざこうした漢字を使うのも、面白く読んでもらうための工夫には違いない。といって、句全がべつに奇を衒っているのではないところに、作者の二重の工夫が見られる。学校給食を教室に運ぶ様子だろう。そうイメージして句をよく見ると、ぎくしゃくした「御御御付」の文字にえっちらおっちら感が滲んでいるようで微笑を誘われる。今では食べ物を運ぶための専用バケツ(「バケツ」とは言わないのかな)があるが、私が子どもだったころには、掃除などに使うごく普通のバケツで味噌汁を運んでいた。むろん、後で雑巾を漬けたりしたわけではないけれど、最初のうちは違和感を感じたものだ。しかし、だんだん何とも思わなくなり、逆にそこらへんで大きなバケツを見かけると食欲すら湧いてきたのだから、慣れとは恐ろしい。それはともかく、句の「さへづり」は実に良く効いている。さして採光のよくない学校の廊下が、周辺の鳥たちの囀りによってパアッと明るくなり、いかにも春到来の気分にさせられる。そしてこの「さへづり」は、給食を待つ子どもたちの賑やかな声をも同時に含んでいる。春や春、どこからか味噌汁のおいしそうな香りが漂ってくるような佳句ではないか。句歌詩帖「草藏」(第14號・2004年3月)所載。(清水哲男)




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