桜ばかり見上げていたら、いつの間にか山吹が点々と。まさに光陰矢の如しです。




2004ソスN4ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 0642004

 山やくや舟の片帆の片あかり

                           久芳水颯

語は「山やく(山焼く)」で春。野山の枯草や枯木を焼き払うこと。かつて焼畑農業が行われていたころ、山岳では山を焼き、その跡地にソバ、ヒエなどを蒔いた。害虫駆除の意味合いもあったようだ。たまには、こんな句もよいものである。まるで良く出来た小唄か民謡の一節のように小粋な味がする。河か湖か、あるいは海の近くなのかもしれない。いずれにしても、山焼きの火の明りが水辺にまで届いてきて、行く舟の片帆に映っている。それを「片あかり」と叙したところが、小憎らしいほどに巧みだ。山焼きと舟との取り合わせも珍しく、しかしべつだん手柄顔もせずにさらりと言い捨てているあたりが粋なのだ。この句は、元禄期の無名俳人ばかりのアンソロジーである柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)に出ている。宵曲は句の景を指して「西洋画にでもありそうな景色」と評しているが、そんなモダンな彩りを持つ粋加減でもある。ところで山焼きと舟の取りあわせといえば、後の世の一茶にもわりに有名な句がある。「山焼の明りに下る夜舟の火」が、それだ。が、掲句と比べてしまうと、いかにも野暮ったい感は拭えない。理由を、宵曲が次のように書いているので紹介しておく。「『七番日記』には「夜舟かな」となっているが、その方がかえっていいかも知れない。山焼の明りが火である上に、更に火を点ずるのは、句として働きがないからである。片帆に片明りするの遥(はるか)に印象的なるに如かぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる」。(清水哲男)


April 0542004

 入学す戦後飢餓の日生れし子

                           上野 泰

語は「入学」。戦後八年目四月の句だから、入学した子はまさに「飢餓の日」に生まれている。たいへんな食糧難の日々だった。母親の体力は消耗していたろうし、粉ミルクなども満足に手に入らなかったろうし、その他種々の悪条件のなかでの子育てはさぞかし大変なことだったろう。そんな苦労を重ねて育てた子が、今日晴れて入学式を迎えたのだ。作者の父親としての喜びが、じわりと伝わってくる。同じ日の句に「一本の前歯がぬけて入学す」もあり、ユーモラスな図でありながら、前歯がぬけかわるまでに成長したことを喜ぶ親心がしんみりと滲んでいる。ひとり作者にかぎらず、これらは当時の親すべてに共通して当てはまる感慨だ。共通するといえば、どんなに時代が変わっても、とりわけて第一子が入学するときの親の気持ちには、子供が生まれたころの日々の暮らしのことがおのずから想起されるものである。なにせ当たり前のことながら新米の親だったわけだから、赤ん坊についてはわからないことだらけ。ちょっと様子が変だと思うと、育児の本だとか家庭医学書などのページを繰ったりして、ああでもないこうでもあろうかと苦労させられた。加えて、これからの暮らし向きの心配もいろいろとあった。それが、とにもかくにも入学の日を迎えたのだ。やっと人生のスタートラインに立ったにすぎないのだけれど、親にしてみれば何か大きな事業をなしとげたような気にすらなるものなのだ。今年もそんな親たちの感慨を背景にして、全国でたくさんの一年生が誕生する。この子たちの人生に幸多かれと、素直に祈らずにはいられない。『春潮』(1955)所収。(清水哲男)


April 0442004

 綺麗事並べて春の卓とせり

                           櫂未知子

意は、いかにも春らしい綺麗(きれい)な彩りの物ばかりを並べたてて、テーブルを装ったということだろう。しかし、綺麗事をいくら並べてみても、やはり全体も綺麗事であるにしかすぎない。装った当人が、そのことをいちばん良く知っている。これから来客でもあるのだろうか。気になって、なんとなく気後れがしている。そんな自嘲を含んだ句だ……。おそらく多くの読者はそう読むはずだと思うけれど、なかにはまったく正反対の意味に解する人もいそうである。というのも、綺麗事の本義は単に表面だけを取り繕った綺麗さの意味ではなくて、そのものずばり、良い意味で「物事を手際よく美しく仕上げること」だからだ。この意味で読むと、掲句の解釈はがらりと変わってしまう。我ながら上手に「春の卓」を作れたという満足感に、作者が浸っていることになる。浮き浮きしている図だ。どちらの解釈を、作者は求めているのだろうか。もとより、私にもわかりっこない。けれども、今日では本義はすっかり忘れ去られているようなので、やはり前者と取るのが自然ではあるのだろう。「君の仕事はいつも綺麗事だ」と言われて、ニコニコする人はまずいないはずだからだ。すなわち、綺麗事の本義はもはや死んでしまったと言ってもよい。同様の例には、たとえば「笑止千万」がある。本義は「悲しくて笑いなどは出てこない」だが、現今では逆の意味でしか通用しない。どうして、こんなにも正反対の転倒が起きるのか。言葉とは面白いものだ。ところで最近、柳家小三治のトークショーの録音を聞いていたら、この「綺麗事」を本義で使っているシーンに出くわした。となれば、落語の世界などではむしろ良い意味で使うことが多いのだろうか。本義の綺麗事に感心する小三治の咄を聞いていて、とても懐しいような気分がした。『セレクション俳人06・櫂未知子集』(2003)所収。(清水哲男)




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