やっと気温が安定してきた。次の乱高下期は梅雨時だ。今日は冬物一掃デーに。




2004ソスN4ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1742004

 雨やどり人が買ふゆえ買ふ蜆

                           米沢吾亦紅

語は「蜆(しじみ)」で春。雨やどりで、たまたま借りたのが魚屋の軒先だった。他にも何人か、同じように雨の止むのを待っているのだが、なかなか止んでくれない。何かを買う目的で店先にいるのではないから、こういうときは時間が経つに連れて、なんとなく後ろめたい気分になってくるものだ。所在なく、並べられている魚などを眺めているうちに、雨やどりの一人が「蜆」を買った。買えば立派な客だから、いましばらくは後ろめたさから解放されて、そこに立っていられるわけだ。と、そんなふうに理屈の筋道を計算したのではないけれど、作者はつられるようにして、自分も蜆を求めたというのである。人が買うまでは、作者はそこに蜆があることにすら気づいてなかったかもしれない。目には写っていたとしても、格段に珍しいものでもないので、それと意識しないことはよくある。はじめから買う気のないときは、どんな店にいようとも、そんなものである。だからこの場合は、買った人がいたことで、雨やどりの後ろめたさを払拭したい気持ちからではなく、急に本来の客の気持ちになって求めたと読むべきだろう。人間心理の微妙なアヤをよく掴んでいる。「人が買ふゆえ」、自分も仕方なく買った。と、字面の理屈だけで解釈しては面白くない。そうか、蜆か、たまには蜆汁も悪くないな。などと、そんな気分になった瞬間から、彼は立派な客として店先に立てたのだ。そして、求めたのがタイやヒラメなど(笑)ではなく蜆だったことが、句の情趣を淡く盛り上げている。降っている雨の様子までもが、蜆の季語から読者にもよく伝わってくるからである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 1642004

 棟上げや春泥をくる祝酒

                           鶴田恭子

語は「春泥」。家の新築は、一世一代の大事業だ。作者の家の新築か他家のそれかはわからないが、句の全体に滲んでいるのは、新築主の誇らかな喜びである。苦労の果てにやっと「棟上げ(むねあげ)」にまで辿り着いた安堵心と達成感とが、春泥の道を運ばれてくる「祝酒」を通して、婉曲に表現されている。施主にしてみれば「やったぞ」と誰かれに叫びたいくらいの気持ちではあろうが、そこをぐっと抑えるのが美徳というものだ。ひとりでにこぼれてくる笑みを噛みしめるようにして上げた目に、春の泥道が嬉しくもまぶしく光っている。たとえ他家の棟上げであるとしても、作者にはその心中がよく理解できるので、素直にともに寿ぐ気持ちがこう詠ませたのだ。棟上げといえば、私の子供のころには餅や小銭を投げあたえる風習があり、出かけていくのが楽しみだった。これもまた建築主の喜びの表現だったわけだが、しかしこの風習自体にはもっと教訓的な意味もあったようだ。最近読んだ中沢正夫(精神科医)の『なにぶん老人は初めてなもので』という本に、こんな記述がある。ローン制度のないころだから、新築のためには若い頃からコツコツと金を貯めなければならない。だから、新築は晩年の大事業であり、人生の総決算みたいなものだった。「大きな立派な家を建てることが、自分がいかに質素倹約誠実に生きてきたか、それまで不便や不自由に耐えてきたかを世間に披露することでもあった。餅を拾って食う子供たちにも、これを建てた人の生き様--ひたすら備え、不便に耐えてきたことが他の大人から聞かされた。オレもいつか、こういう大きな家を建てようと子供心にも思ったものである」。すなわち、備える耐えるが庶民の美徳の第一とされた時代ゆえの餅まきだったわけで、そう考えると、ローン時代にこの風習が消えたことの意味も判然としてくる。『毛馬』(2004)所収。(清水哲男)


April 1542004

 鞦韆は垂れ罠はいま狭められ

                           藤田湘子

語は「鞦韆(しゅうせん)」で春。「ぶらんこ」のこと。古く中国から入ってきた遊具で、元来は大人のものだったという。句のそれは、現代の公園などに設置された子供用だ。うららかな春の日の昼下りだろう。誰も乗っていない鞦韆が、静かに垂れ下がっている。子供たちが学校に行っている時間に、よく見かける光景だ。静謐で平和な時間が流れている。と、ここまでは実景であるが、いきなり出てきた「罠(わな)」以降は作者のいわば心象風景だ。作者の身に、眼前の平和な情景にそぐわない、何か切迫した事情でもあったのか。それとも、あまりに平穏な光景ゆえに、かえって漠然たる不安の感情が頭をもたげたのでもあろうか。おのれ自身を、あるいは他の誰かを陥れるための「罠」が、公園のどこかに仕掛けられているような気分になってしまった。しかも、その罠が「いま」じわりと「狭められ」たような気分に……。同じ時期の句に「山吹やこの世にありて男の身」が見られるので、一家の主人たる作者の暮らしに関わっての不安材料や不安条件を、象徴的に「罠」と詠んだのかもしれない。そんなふうに作者の不安の根を忖度すると、鞦韆というまことにおおらかな遊具と、罠というまことに不気味な仕掛けとの一見突飛とも思える取り合わせが、実によく無理なく効いてくる。しかもそのうちに、作者の不安は読者のそれに乗り変わるようにも感じられてきて、いつしかうららかな春の日の公園風景が陰画と化していくようでもある。さながらボディブローを効果的に打ち込まれたように、時間の経過とともに心の重さが増してくる句だ。『一個』(1984)所収。(清水哲男)




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