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2004ソスN4ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1942004

 一本もなし南朝を知る桜

                           鷹羽狩行

年の桜の開花は、全国的に早かった。もうすっかり葉桜になってしまった地方も多いだろう。句は「吉野山」連作三十八句のうち。吉野の桜はシロヤマザクラだから、ソメイヨシノに比べて開花は遅いほうだが、ネット情報によれば、今年は既に先週末から奥千本も散りはじめているという。この週末までも、もちそうにない。句意は明瞭。南朝は14世紀に吉野にあった朝廷だから、樹齢六百年以上の桜の木でもないかぎり、当時のことは知るはずもないわけだ。そういうことを詠んでいるのだが、ただ単に理屈だけを述べた句ではない。吉野の桜の歴史は1300年前からととてつもなく古く、訪れる人はみな花の見事さに酔うのもさることながら、同時に古(いにしえ)人と同じ花の情景を眺められることにも感動するのである。いわば、歴史に酔いながらの花見となるのだ。しかしよく考えてみれば、昔と同じ花の情景とはいっても、個々の木にはもはや南朝を知る「一本」もないわけで、厳密な意味では同じではありえない。だからこそ、作者はこう詠んだのだろう。すなわち、吉野桜はただ南朝の盛衰を傍観していたのではなく、桜一本一本にも同様に盛衰というものがあり、その果てに現在も昔と同じ花の盛りを作り出している。そのことに、あらためて作者は感動しているのである。とりわけて作者は、幼いころから南朝正当論を叩き込まれた世代に属している。だから、吉野桜に後醍醐天皇や楠木正成正行父子などの悲劇を、ごく自然に重ね合わせて見てしまう。南朝正当論の是非はともかくとして、吉野桜をどこか哀しい目でみつめざるをえない作者の世代的心情が、じわりと伝わってくる佳句と読んだ。「俳句研究」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


April 1842004

 狐雨海市を見んと旅にあり

                           加藤三七子

語は「海市(かいし)」で春。蜃気楼(しんきろう)の別称だ。「海市」は、遠方の街が海上に浮き上がって見えることからの命名だろう。残念ながら、私はまだ見たことがない。日本では、富山県魚津海岸あたりが名所として知られている。「蜃気楼は、大気中の温度差(=密度差)によって光が屈折を起こし、遠方の風景などが伸びたり反転した虚像が現れる現象です。よく、「どこの風景が映るの?」という質問を受けますが、実際にそこに見えている風景が上下に変形するだけで、ある風景がまったく別の方向に投影されるわけではありません」(石須秀知・魚津埋没林博物館学芸員)。ちなみに、夏のアスファルト路でも起きる「逃げ水」現象も、蜃気楼の小型版である。と、原理を知ってしまうと興醒めだけれど、実際に見ればやはり不思議な気持ちになるだろう。そういうときには昔から「狐につままれたようだ」と言い習わすが、掲句はそんな慣用語を意識しての作ではなかろうか。蜃気楼を見に行くための旅の途中で、雨が降ってきた。普通の雨ならがっかりもしようが、いわゆる「狐雨」である。「狐の嫁入り」とも言う。日が射しているのに、雨が降っている。したがって、たいした雨じゃない。この分なら、天気は大丈夫、ちゃんと蜃気楼は見られそうだ。作者はほっと安堵している。そして、その安堵した気持ちの余裕のなかで、微苦笑したのである。選りにもよって、こんなときに「狐雨」に会うとは……。蜃気楼を見る前なのに、もう騙されかけているのかもしれない。金子兜太『中年からの俳句人生塾』(2004)にて初見。(清水哲男)


April 1742004

 雨やどり人が買ふゆえ買ふ蜆

                           米沢吾亦紅

語は「蜆(しじみ)」で春。雨やどりで、たまたま借りたのが魚屋の軒先だった。他にも何人か、同じように雨の止むのを待っているのだが、なかなか止んでくれない。何かを買う目的で店先にいるのではないから、こういうときは時間が経つに連れて、なんとなく後ろめたい気分になってくるものだ。所在なく、並べられている魚などを眺めているうちに、雨やどりの一人が「蜆」を買った。買えば立派な客だから、いましばらくは後ろめたさから解放されて、そこに立っていられるわけだ。と、そんなふうに理屈の筋道を計算したのではないけれど、作者はつられるようにして、自分も蜆を求めたというのである。人が買うまでは、作者はそこに蜆があることにすら気づいてなかったかもしれない。目には写っていたとしても、格段に珍しいものでもないので、それと意識しないことはよくある。はじめから買う気のないときは、どんな店にいようとも、そんなものである。だからこの場合は、買った人がいたことで、雨やどりの後ろめたさを払拭したい気持ちからではなく、急に本来の客の気持ちになって求めたと読むべきだろう。人間心理の微妙なアヤをよく掴んでいる。「人が買ふゆえ」、自分も仕方なく買った。と、字面の理屈だけで解釈しては面白くない。そうか、蜆か、たまには蜆汁も悪くないな。などと、そんな気分になった瞬間から、彼は立派な客として店先に立てたのだ。そして、求めたのがタイやヒラメなど(笑)ではなく蜆だったことが、句の情趣を淡く盛り上げている。降っている雨の様子までもが、蜆の季語から読者にもよく伝わってくるからである。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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