一茶とゲーテ、子規とランボー、虚子とリルケ。同時代人。何事ノ不思議ナケレド。




2004ソスN4ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2242004

 若芝へぬすみ足して毬ひろふ

                           伊東好子

語は「若芝(わかしば)」で春。夏には「青芝」となる。西条八十の『毬(まり)と殿様』じゃないけれど、昔から「てんてん手毬」は、手が逸れるととんでもない方向に飛んでいくことになっている。この童謡では垣根を越えて表の通りまで飛んで出た手毬が、たまたま通りかかった殿様の籠に飛び込んで、なんとそのまま東海道を下り、遠く紀州まで行ってしまうというお話だった。句ではそこまで突飛ではないが、公園などの(たぶん)立ち入り禁止区域の芝生に入ってしまい、おっかなびっくり「ぬすみ足」で拾いに行っている。幼いころの回想か、あるいは眼前で女の子たちが遊んでいる光景の一齣だろう。叱られはしないかとドキドキしている女の子の心と、初々しい若芝の色彩とがよく釣り合っていて、いかにも春の好日といった雰囲気が出ている。これが男の子となれば、手毬ではなくて野球のボールだ。田舎には芝生などという洒落た場所はなかったけれど、同じような体験は私にもある。芝生ならぬ畑の真ん中にボールが飛び込んでしまうことはしょっちゅうで、やはりぬすみ足で拾いに行くのだが、大人に見つかるとビンタを覚悟しておかなければならなかった。こちらは作物を踏まぬように注意を払っているつもりでも、大人からすれば単なる畑の踏み荒らし行為としか写らない。一人がつかまれば共同責任ということで、全員整列させられて説教されビンタをくらったものである。誰もまだ体罰反対などと言わなかった時代だ。話が脱線した。繰り返しみたいになるけれど、掲句の良さは女の子のぬすみ足の様子ではなく、あくまでも「ドキドキする心」が若芝の上にあるという、その半具象的な描き方にあると言えるだろう。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


April 2142004

 山国の蝶を荒しと思はずや

                           高浜虚子

語は「蝶」で春。作者は「思はずや」と問いかけてはいるが、べつだん読者にむかって「思う」か「思わない」かの答えを求めているわけではない。この質問のなかに、既に作者の答えは含まれている。「山国の蝶を荒し」と感じたからこそ、問いかけの形で自分の確信に念を押してみせたのだ。「きっと誰もがもそう思うはずだ」と言わんばかりに……。優美にして華麗、あるいは繊細にして可憐。詩歌や絵画に出てくる蝶は多くこのように類型的であり、実際に蝶を見るときの私たちの感覚もそんなところだろう。ところが「山国の蝶」は違うぞと、掲句は興奮気味に言っている。山国育ちの蝶は優美可憐とはほど遠く逞しい感じで、しかも気性(蝶にそんなものがあるとして)は激しいのだと。そしてここで注目すべきは、、蝶の荒々しさになぞらえるかのように、この句の表現方法もまた荒々しい点だ。そこが、作者いちばんの眼目だと、私には思われる。すなわち、作者の得意は、蝶に意外な荒々しさを見出した発見よりも、むしろかく表現しえた方法の自覚にあったのではなかろうか。仮に内容は同じだとしても、問いかけ方式でない場合の句を想像してみると、掲句の持つ方法的パワーが、より一層強く感じられてくるようだ。まことに、物も言いようなのである。これは決して、作者をからかって言うわけじゃない。物も言いようだからこそ、短い文芸としての俳句は面白くもあり難しくもあるのだから。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)


April 2042004

 亡き人の表札いまも花大根

                           森 みさ

語は「花大根(大根の花)」で春。こういう光景を、かつて見たことがあるような……。実際に見たことはないのかもしれないが、そんな郷愁を感じさせてくれる句だ。晩春、大根は菜の花に似た形の花をつける。種を採るために畑に残しておく大根だから、数はそんなに多くはない。多くないうえに白い地味な花なので、ひっそりとした寂しいような味わいがある。ひそやかに白い花を咲かせた畑を前に建つ家も、こじんまりとした目立たないたたずまいなのだろう。「表札いまも」というのだから、この家の主人が亡くなってからかなりの月日の経っていることがわかる。亡くなってからも表札を掛け替えがたく、一日伸ばしにしている遺族の心情が思われて、いよいよ花大根が目に沁みるのである。同時に、表札の主が存命であったころの様子もしのばれ、ご当人が今そこにひょいと現れそうな感じもしている。毎春相似た場所に相似た花をつける大根が時間の経過を忘れさせてしまい、その間に人が亡くなったことなどが嘘のようにも思われるのだ。周囲に人気のない静かな田舎の春の午後のスケッチとして、表札という思いがけない小道具を使いながらも、確かなデッサン力を示している。良い句です。表札でふと思い出したが、戦争中には表札の隣りに並べてかける「出征軍人表札」なるものがあった(これも実際に見たのか、後の学習で覚えたのかは定かではないけれど)。日の丸の下に「出征軍人」と大書してあり、出生兵士を送り出している家がすぐにわかるようになっていた。むろん国家は名誉のしるしとして配ったのだろうが、日々哀しく見つめていた人もたくさんいたことだろう。表札もまた、いろいろなことを物語る。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)




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