一転して「冬」模様になるとの予報。幸い、外出の予定なし。お気をつけ下さい。




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April 2442004

 家族寫眞に噴水みじかく白き春

                           竹中 宏

らりと読み下せば、こうなる。家族で撮った春の写真に、噴水が写り込んでいる。シャッター・チャンスのせいで、噴水の丈は短い。画面は、光線の加減でハレーションでも起こしたのだろうか。全体的に、写真は白っぽい仕上がりになっている。そんな写真の世界を「白き春」と締めくくって、明るい家族写真にひとしずくの哀感を落としてみせた恰好だ。このときにこの理解は、一句を棒のようにつづけて読むことから生まれてくる。むろんこう読んでも一向にかまわないと私は思うが、そう読まない読み方もできるところが、実は竹中俳句の面白さではないのかと、一方では考えている。すなわち、棒のように読み下さないとすれば、キーとなるのは「噴水みじかく」で、この中句は前句に属するのか、あるいは後五に含まれるのかという問題が出てくる。前句の一部と見れば、噴水は写真に写っているのだし、後句につながるとすれば、弱々しく水のあがらない現実の噴水となる。どちらなのだろうか。と、いろいろに斟酌してみても、実は無駄な努力であろうというのが、私なりの結論である。この一句だけからそんなことを言うのは無理があるけれど、この人の句の多くから推して、この中句は前後どちらにも同時にかけられていると読まざるを得ないのだ。しかもそれは作者の作句意識が曖昧だからというのではなく、逆に明確に意図した多重性の演出方法から来ているのである。中句を媒介にすることで、掲句の場合には写真と現実の世界とが自由に出入りできるようになる。その出入りの繰り返しの中で、家族のありようは写真の中の噴水のように、短くともこれから高く噴き上がるように思えたり、現実のそれのようにしょんぼりするように思えたりする。そして、このどちらが真とは言えないところに、「白き春」の乾いた情感が漂うことになるのである。またそして、更に細かくも読める。「噴水」までと「みじかく白き春」と切れば、どうなるだろうか。後は、諸兄姉におまかせしましょう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)


April 2342004

 勤めの途中藤の真下の虚空抜ける

                           堀 葦男

語は「藤」で春。「虚空」は抽象的な造形空間ではなくて、むしろ実感に属する世界だろう。「通勤の途中」、大きな藤棚の「真下」を通り抜けていく。さしかかると、それまでの空間とはまったく違い、そこだけがなんだか現実離れした異空間のように感じられる。現実味や生活臭などとは切れてしまっている空間だ。それを「虚空」と詠んだ。通勤の途次だから、藤を仰いでつらつら眺めるような時間的心理的な余裕はない。ただ足早に通り抜けていくだけの感じが、よく「虚空」に照応しているではないか。束の間の「虚空」を抜ければ、再びいつもの散文的な空間がどこまでも広がっているのだから、ますますさきほどの不思議な虚空感覚が色濃くなる気分なのだ。藤棚の下を擦過するようにしてしか、花と触れ合えない現代人のありようがよく描出されている。これもまた、忙しい現代人の「花見」の一様態だと言えば、皮肉に過ぎるだろうか。そして私には、働く現代人のこのような虚空感覚は、他の場面でも瞬時さまざまに発生しては消えているにちがいないとも思われた。「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。スペイン人は走った後で考える」とは、笠信太郎が戦後『ものの見方について』で有名にした言葉だ。ならば日本人はどうかというと、すなわち「日本人は誰かが走っているから後をついて走る」と、それこそ誰かがうまいことを言った。でも日本人は一方で、後をついて走りながらも何か違うんだよなあとも感じている。そこに必然的に生じてくるのが、この種の虚空感覚というものなのだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


April 2242004

 若芝へぬすみ足して毬ひろふ

                           伊東好子

語は「若芝(わかしば)」で春。夏には「青芝」となる。西条八十の『毬(まり)と殿様』じゃないけれど、昔から「てんてん手毬」は、手が逸れるととんでもない方向に飛んでいくことになっている。この童謡では垣根を越えて表の通りまで飛んで出た手毬が、たまたま通りかかった殿様の籠に飛び込んで、なんとそのまま東海道を下り、遠く紀州まで行ってしまうというお話だった。句ではそこまで突飛ではないが、公園などの(たぶん)立ち入り禁止区域の芝生に入ってしまい、おっかなびっくり「ぬすみ足」で拾いに行っている。幼いころの回想か、あるいは眼前で女の子たちが遊んでいる光景の一齣だろう。叱られはしないかとドキドキしている女の子の心と、初々しい若芝の色彩とがよく釣り合っていて、いかにも春の好日といった雰囲気が出ている。これが男の子となれば、手毬ではなくて野球のボールだ。田舎には芝生などという洒落た場所はなかったけれど、同じような体験は私にもある。芝生ならぬ畑の真ん中にボールが飛び込んでしまうことはしょっちゅうで、やはりぬすみ足で拾いに行くのだが、大人に見つかるとビンタを覚悟しておかなければならなかった。こちらは作物を踏まぬように注意を払っているつもりでも、大人からすれば単なる畑の踏み荒らし行為としか写らない。一人がつかまれば共同責任ということで、全員整列させられて説教されビンタをくらったものである。誰もまだ体罰反対などと言わなかった時代だ。話が脱線した。繰り返しみたいになるけれど、掲句の良さは女の子のぬすみ足の様子ではなく、あくまでも「ドキドキする心」が若芝の上にあるという、その半具象的な描き方にあると言えるだろう。『俳句歳時記・春の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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