ヤ田t句

April 2642004

 韮汁や体臭を売る私小説

                           花田春兆

語は「韮(にら)」で春。私は「韮汁」もレバニラ炒めなども好きなほうだが、韮の強い香りを臭気と感じて嫌う人も少なくない。作者も、いささか敬遠気味に食べているような気がする。「私小説」を読みさしての食事だろうか。あくどいばかりに自己を晒した小説と韮汁との取り合わせは、もうそれだけで「むっ」とするような雰囲気を醸し出している。加えて「体臭を売る」と侮蔑しているのだから、よほどその小説を書いた作家に嫌悪の念を覚えたのだろう。しかし、侮蔑し嫌悪しても、だからといって途中で放り出せないのが私小説だ。何もこんなことまで書かなくてもよいのに、などと思いつつも、ついつい最後まで引きずられ読まされてしまうのである。私小説といってもいろいろだけれど、共通しているのは、作者にとっての「事実」が作品を支える土台になっているところだ。読者は書かれていることが「事実」だと思うからこそ反発を覚えたり、逆に共感したりして引きずられていくのである。だいぶ前に、掲句の作者が書いた富田木歩伝を読んだことがあるが、実に心根の優しい書き方だった。良く言えば抑制の効いた文章に感心し、しかし一方でどこか物足りない感じがしたことを覚えている。たぶん「事実」の書き方に、優しい手心を加え過ぎたためではなかろうか。後にこの句を知って、そんなことを思った。ところで事実といえば、俳句も作者にとっての事実であることを前提に読む人は多い。いかにフィクショナルに俳人が詠んでも、読者は事実として受け止める癖がついているから、あらぬ誤解が生じたりする。古くは日野草城の「ミヤコホテル」シリーズがそうであったように、フィクションで事実ならぬ「真実」を描き出そうという試みは、現在でもなかなか通じないようだ。俳句もまた、私小説ならぬ「私俳句」から逃れられないのか。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0762006

 いざる父をまだ疑わぬ涼しき瞳

                           花田春兆

語は「涼し」で夏。作者は脳性マヒによる重度の運動障害機能障害があり、歩くことができない。車椅子での生活を送っている。したがって、家の中ではいざって移動するわけだが、まだ幼い我が子はそんな父の姿を少しも疑わず、まっすぐに「涼しき瞳(め)」を向けてくるのだ。その、いとおしさ……。この句を読んで、私はすぐパット・ムーアというアメリカ女性の書いた『私は三年間老人だった』の一場面を思い出した。その目的は省略するが、彼女は二十代のときに三年間、老女に変装しては表に出て、人々の反応を調査観察するということを試みた。その反応事例は興味深いもので、年齢によって明らかに差別的な態度をとる店員だとか、ハーレムで襲ってきた少年たちの執拗な暴力のことだとか、とにかく高齢だということだけで、世の中には理不尽なふるまいをする人々の多いことが書かれている。そんな流れのなかで、老女姿の彼女はフロリダの浜辺で、一人で遊んでいた六歳の少年と出会う。「こんにちは」と声をかけると、彼も元気よく「こんにちは」と答えた。少し立ち話をしているうちに、二人はすっかり仲良くなり、いっしょに貝探しを楽しんだりしたのだった。そして別れ際、彼は集めたたくさんの貝のなかから一つを取り出した。「これあげる。さっきこの貝、好きだって言ったでしょ」。「『ありがとう』私はそう言って、かがんで貝を受け取ろうとした。すると、彼は背伸びして私の頬にキスした。/「じゃあね」/彼は大きな声でそう言い、くるっと向きを変えると砂の上を走って行った。浜辺の端でもう一度振り返ると、さよならと手を振った」。そして、彼女は書いている。「六歳の友達にとって、若いとか年寄りだとかということは関係ないのだ。それに、いじめようなどという気持ちや思いこみもないし、年齢が障害になることもまったくない。私たちの間にはたしかに友情が生まれ、笑い合い、貝がたくさん転がった浜辺で二人の時間を過ごした。/長く疲れた一日の終わりに、私の心にこれは甘美な蜜であった」と。掲句の子のように、この子の瞳もきっと涼しかったに違いない。句は「俳句界」(2006年6月号)の花田春兆と佐高信の対談見出しより引用した。(清水哲男)


August 2982014

 城壁一重に音絶ゆ山塊雁渡し

                           花田春兆

渡しは雁が渡って来る陰暦八月ごろ吹く北風で青北風(あをぎた)ともいう。車椅子生活の作者は海外旅行も随分したらしい。万里の長城へも行ったとあり、その際得た句である。句は漢詩調で城壁に在る時の感慨を吐露している。森閑たる一重に伸びる長城と取り囲む山塊の空には雁渡しの風がびょうびょうと吹いている。心肝寒からしめる光景に「立ち向かう覚悟」のような呟きが聞こえる。<正念場続く晩年寒の鵙><帰る雁へ托す願ひの一つあり><初鴉「生きるに遠慮が要るものか」>がある。人間遠慮が要るもんかが中々これで難しい。『喜憂刻々』(2007)所収。(藤嶋 務)




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