毎朝騒いでいたカラスどもが、ぱったり姿を見せなくなった。何があったのか。




2004ソスN4ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 2742004

 畑打つや土よろこんでくだけけり

                           阿波野青畝

語は「畑打(つ)」で春。農作業のはじまりだ。鍬で耕していくはしから、冬の間は眠っていた「土」が、自分の方から「よろこんで」砕かれていくというのである。むろん実際には作者が喜びを感じているのだが、それを「土」の側の感情として捉えたところがユニークで面白い。こうした耕しの際の喜びは、体験者でないとわかりにくいだろう。よく手入れの行き届いた肥沃な畑でないと、こうはいかない。日陰で痩せた畑の土は、絶対によろこばない。鍬の先で砕けるどころか、団子のように粘り着いてきて往生させられる。痩せた田畑しか持てなかった農家の子としては、なんとも羨ましい句に写る。畑にかぎらず土は生きものだから、気候が温暖で水はけが良く、しかもこまめに手入れされていれば、人馬一体じゃないけれど、人と土との気持ちが通いあうように事が進んでゆく。野球やスポーツのグラウンドとて、同じこと。同じグラウンドとはいっても、河川敷などのそれとプロが使うそれとでは大違いだ。例えて言えば、草野球のグラウンドがブリキかトタンの板だとすると、プロ用のそれはビロードの布地である。立った印象が、それほどに違う。そのかみのタイガースの三塁手・掛布雅之は守備位置の土(砂と言うべきか)をよくつまんでは舐める癖があったけれど、あんな真似は河川敷ではとてもできない。というか、誰だってとてもそんな気にはなれっこない。やはりビロードの土だからこそ、無意識にもせよ、ああいうことができたのだろうと思う。『万両』(1931)所収(清水哲男)


April 2642004

 韮汁や体臭を売る私小説

                           花田春兆

語は「韮(にら)」で春。私は「韮汁」もレバニラ炒めなども好きなほうだが、韮の強い香りを臭気と感じて嫌う人も少なくない。作者も、いささか敬遠気味に食べているような気がする。「私小説」を読みさしての食事だろうか。あくどいばかりに自己を晒した小説と韮汁との取り合わせは、もうそれだけで「むっ」とするような雰囲気を醸し出している。加えて「体臭を売る」と侮蔑しているのだから、よほどその小説を書いた作家に嫌悪の念を覚えたのだろう。しかし、侮蔑し嫌悪しても、だからといって途中で放り出せないのが私小説だ。何もこんなことまで書かなくてもよいのに、などと思いつつも、ついつい最後まで引きずられ読まされてしまうのである。私小説といってもいろいろだけれど、共通しているのは、作者にとっての「事実」が作品を支える土台になっているところだ。読者は書かれていることが「事実」だと思うからこそ反発を覚えたり、逆に共感したりして引きずられていくのである。だいぶ前に、掲句の作者が書いた富田木歩伝を読んだことがあるが、実に心根の優しい書き方だった。良く言えば抑制の効いた文章に感心し、しかし一方でどこか物足りない感じがしたことを覚えている。たぶん「事実」の書き方に、優しい手心を加え過ぎたためではなかろうか。後にこの句を知って、そんなことを思った。ところで事実といえば、俳句も作者にとっての事実であることを前提に読む人は多い。いかにフィクショナルに俳人が詠んでも、読者は事実として受け止める癖がついているから、あらぬ誤解が生じたりする。古くは日野草城の「ミヤコホテル」シリーズがそうであったように、フィクションで事実ならぬ「真実」を描き出そうという試みは、現在でもなかなか通じないようだ。俳句もまた、私小説ならぬ「私俳句」から逃れられないのか。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2542004

 桜蘂散りつくづくと地べたなる

                           宮澤明寿

語は「桜蘂(さくらしべ)散る」で春。「桜蘂降る」に分類。桜の花が散ったあとで、萼(がく)に残った蘂が散って落ちること。我が家の近くでは、ちょうどいま、散っている最中だ。この現象に気がつくのは、散る様子が見えたからというよりも、そのあたりの「地べた」が赤くなっていることからである。まず赤くなっている地べたに気がついて、次に桜の木をちょっと仰いでみて納得する人が大半だろう。そして作者は、もう一度地べたに目を戻した。蘂の様子を見るためだが、いつしか「つくづくと」地べたのほうに見入っていたというのである。そうだ、これが地べたというものなんだ。と、ひとり感に入っている様子が、よく伝わってくる。こういうときでもないと、人が地べたをつくづくと手応えをもって感じるようなことはあるまい。これが落花の様子だと地べたよりも花びらのほうに目を奪われるが、地味な蕊ゆえに、こういうことが起きる。蕊が散ってくれたおかげで、作者は地べたを発見できたというわけだ。似たような体験をお持ちの方も、多いのではなかろうか。何でもないような発見ではあるが、当人にとってはとても大事なことだから、こう書き留めておく必要があった。その気持ちも、よくわかる。似たような体験といえば、私などは写真を撮っているときにしばしば感じる。ねらった被写体よりも、それこそ地べただとか水だとか、あるいは空であるとか。日頃気にも留めていないような物質や空間に、思いがけない魅力を覚えることがある。何故だろうか。おそらくは人間の目とは違い、カメラのレンズは被写体も周辺の事物もみな公平に捉えてしまうから、発見につながりやすいのだろう。逆に人間の目ははじめから公平じゃないので、掲句のように、発見までにはいささか手間取るのにちがいない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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