世界中のメーデーで歌われる「インターナショナル」の諸バージョンが聞けます。




2004ソスN5ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0152004

 廚窓開けて一人のメーデー歌

                           一ノ木文子

日はメーデー。主婦である作者は台所の窓を開けて、ひとり小声で「メーデー歌」をうたっている。♪起て万国の労働者、轟きわたるメーデーの……。行進に参加しなくなってから、もう何年になるのだろう。職場にいたころは、毎年参加していた。こうしてうたっていると、あの頃いっしょに歩いた仕事仲間のことが、あれこれと思い出される。みんな、どうしているだろうか。若くて元気だったあの頃が懐かしい。「汝の部署を放棄せよ、汝の価値に目覚むべし、全一日の休業は、社会の虚偽をうつものぞ」。純粋だった。怖いもの知らずだった。と、作者は青春を懐旧している。歌は思い出の索引だ。盛んにうたった時代に、人の心を連れて行ってくれる。メーデー歌を媒介にして、そのことを告げている作者のセンスが素晴らしい。今年の「みどりの日」に開かれた連合系の中央メーデーへの参加者は、激減したという。そりゃそうさ。世界中の労働者諸先輩たちがいわば血で獲得した五月一日という日にちをずらし、あまつさえチア・ガールを繰り出し屋台を作って人数をかきあつめるなどは、このメーデー歌に照らしてみるだけでも、その精神に反している。表面的にはともかく、従来からの資本と労働の本質的な関係は何ひとつ変わってはいないのだ。にもかかわらず、主催者がこうした愚行を犯すとは。情けなくて、涙も出やしない。恥ずかしい。今日は、どんなメーデーになるのだろうか。私も、小声でうたうだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


April 3042004

 妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ

                           草間時彦

くれている理由は、夫婦で(あるいは家族で)どこにも出かけないでいるからだろう。この時期、新聞やテレビを見ても、行楽地で楽しそうにしている人たちの様子が写っている。みんなあんなに楽しんでいるのにと思うと、出かけない我が身がみじめに思えてきて、ついついふくれっ面になってしまう。作者の事情は知らないが、せっかくの連休を家でゆっくり過ごしたいと思ったのかもしれないし、手元不如意だったのかもしれない。いずれにしても世間並みのことを妻にしてやれない負い目のようなものはあるから、妻の不機嫌が余計に目立つのだ。こんなことなら、無理してでも出かけておけばよかった……。なんとも愉快ではない忸怩たる思いのうちに、ゴールデンウィークが過ぎていったというのである。思い当たる読者もおられるだろう。戦後経済の高度成長とともに、連休と旅が結びついてきて、連休前には「どこにお出かけですか」が挨拶代わりまでになってゆく。だから、ニッポンのお父さんたちは大変なことになったのだった。仕事からは解放されても、家族サービスという名の労働が待ち受けるようになったからだ。バブル崩壊後には少しはこの風潮にも翳りが出てきたが、しかし依然としてどこかに出かける人は少なくない。海外へは無理でも、近隣への小旅行は可能だというわけか。そんな人たちで、今年も行楽地はにぎわっている。ということは、逆にどこかには「ふくれふくれ」ている妻たちも存在する理屈だ。そしてもちろんその蔭には、居心地悪く家の中で小さくなっている夫たちも……。やれやれ、である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2942004

 田螺らよ汝を詠みにし茂吉死す

                           天野莫秋子

語は「田螺(たにし)」。春、田圃や沼などの水底を這い、田螺の道を作る。ちなみに、斎藤茂吉の命日は二月二十五日。「田螺ら」が、ようやく動きはじめようかという早春の候であった。そんな田螺たちに、いちはやく茂吉の訃報を届けてやっている作者の暖かさが伝わってくる。いや、こうして田螺たちに告げることで、「ついに亡くなられた」と自身に言い聞かせている作者の哀悼の気持ちが滲み出た句だ。告げられた眼前の田螺たちは、春まだ浅い冷たい水の底で、じっとして身じろぎもしなかったろう。茂吉の田螺の歌でよく知られているのは、『赤光』に収められた「とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるき水恋ひにけり」だ。「かりようびんが(迦陵頻伽)」とは雪山または極楽に住む人面の鳥で、田螺はそのかくし児だというのである。不思議な歌だが、何故か心に残る。田螺についての茂吉の言。「田螺は一見みすぼらしい注意を引かない動物であるが、それがまたこの動物の特徴であって、一種ローマンチックな、現代的でないような、ないしはユーモアを含んでいるような気のする動物である」。不思議な印象の田螺だから、かくのごとき不思議な想像歌が自然に飛びだしたと言うべきか。みすぼらしく見えてはいるが、実はとんでもない高貴の出なんだぞと世間に知らしめることで、田螺のために暖かい気を配ってやっている。掲句の作者は、間違いなくこの一首を踏まえて詠んだのだと思う。世の中には、そんな高貴の出自とも知らずに、平気で田螺を食ってしまうう人がいる(笑)。南無阿弥陀仏。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)(清水哲男)




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