2004N5句

May 0152004

 廚窓開けて一人のメーデー歌

                           一ノ木文子

日はメーデー。主婦である作者は台所の窓を開けて、ひとり小声で「メーデー歌」をうたっている。♪起て万国の労働者、轟きわたるメーデーの……。行進に参加しなくなってから、もう何年になるのだろう。職場にいたころは、毎年参加していた。こうしてうたっていると、あの頃いっしょに歩いた仕事仲間のことが、あれこれと思い出される。みんな、どうしているだろうか。若くて元気だったあの頃が懐かしい。「汝の部署を放棄せよ、汝の価値に目覚むべし、全一日の休業は、社会の虚偽をうつものぞ」。純粋だった。怖いもの知らずだった。と、作者は青春を懐旧している。歌は思い出の索引だ。盛んにうたった時代に、人の心を連れて行ってくれる。メーデー歌を媒介にして、そのことを告げている作者のセンスが素晴らしい。今年の「みどりの日」に開かれた連合系の中央メーデーへの参加者は、激減したという。そりゃそうさ。世界中の労働者諸先輩たちがいわば血で獲得した五月一日という日にちをずらし、あまつさえチア・ガールを繰り出し屋台を作って人数をかきあつめるなどは、このメーデー歌に照らしてみるだけでも、その精神に反している。表面的にはともかく、従来からの資本と労働の本質的な関係は何ひとつ変わってはいないのだ。にもかかわらず、主催者がこうした愚行を犯すとは。情けなくて、涙も出やしない。恥ずかしい。今日は、どんなメーデーになるのだろうか。私も、小声でうたうだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0252004

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

                           松尾芭蕉

語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)


May 0352004

 乾きゆく音をこもらせ干若布

                           笠松裕子

語は「若布(わかめ)」で春。井川博年君から、彼の故郷(島根県)の名産である「板わかめ」をもらった。刈ってきた若布を塩抜きしてから板状に乾かして、およそ縦横30センチほどにカットした素朴な食品だ。特長は、戻したり特別な調理をしたりすることなく、袋から出してすぐに食べられるところである。早速食べてみて、あっと思った。実に懐かしい味が、記憶の底からよみがえってきたからだった。子供の頃に、たしかに食べたことのある味だったのだ。ちょっと火にあぶってからもみ砕いて、ご飯にかけたり握り飯にまぶたりしていたのは、これだったのか……。住んでいたのが島根隣県の山口県、それも山陰側だったので、島根名産を口にしていたとしても不思議ではない。それにしても、半世紀近くも忘れていた味に出会えたのは幸運だ。こういうこともあるのですね。そこで、誰かがこの懐かしい「板わかめ」を句に詠んでいないかと探してみた。手元の歳時記をはじめ、ネットもかけずり回ってみたが、川柳のページに「少しだけ髪が生えたか板ワカメ」(詠み人知らず)とあったのみ。笑える作品ではあるけれど、私の懐かしさにはつながらない。そこでもう一度歳時記をひっくり返してみているうちに、ひょっとすると「板わかめ」を題材にしたのかもしれないと思ったのが掲句である。食べるときのパリパリした感じが、実は「乾きゆく音」がこもったものと解釈すれば、「板わかめ」にぴったりだ。いや、これぞ「板わかめ」句だと、いまでは勝手に決め込んでいる。山陰地方のみなさま、如何でしょうか。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0452004

 世の隅の闇に舌出す烏貝

                           北 光星

語は「烏貝」で春。淡水産の二枚貝で、生長すると黒くなるから「カラスガイ」と言う。その真っ黒な貝が「闇」に沈んで、ニタリと舌を出している。人間からすると「世の隅」に忘れられ、いじけているようにも写るのだが、どっこい実はそうではなくて、ずる賢くもしたたかに生きているぞというわけだ。人の目に見えないところで舌を出している様子を想像すると、ぞっとするような不気味さがある。このことはまた、人間社会のなかでも起きていることだろう。ところでどんな歳時記にも、烏貝は食べると泥臭くて不味いと書いてある。生まれて初めてパリに行ったときに「ムール貝」が山ほど出てきて結構美味かったが、あれは「烏貝」とは違う種類なのだろうか。そのときには、たしか日本で言う「烏貝」だと教えられたような記憶があるのだが……。岡本かの子にも、こんな紀行文がある。「日本は四方(しほう)海に囲まれているから海の幸(さち)は利用し尽している筈だが、たった一つフランスに負けていることがある。それは烏貝がフランス程普遍的な食物になっていないことだ。日本では海水浴場の岩角にこの烏貝が群っていて、うっかり踏付(ふんづ)けて足の裏を切らないよう用心しなければならない。あんなに沢山ある貝が食べられないものかと子供の時によく考えたことだが、それがフランスへ行って、始めて子供の時の不審を解決することが出来た。烏貝はフランス語でムールと云う。このムールのスープは冬の夜など夜更(よふか)しして少し空服(くうふく)を感じた時食べると一等いい」。ただ、海(水浴場)にいるとあるから、淡水産ではない。となると、かの子もパリで私に教えてくれた人と同様に、別種の貝と混同していたのだろうか。読者諸兄姉のご教示を仰ぎたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0552004

 螫さるべき食はるべき夏来りけり

                           相生垣瓜人

夏。この言葉に触れただけで、何かすがすがしい気分になる。♪卯の花の匂ふ垣根に ほととぎすはやも来鳴きて 忍音(しのびね)もらす夏は来ぬ。佐佐木信綱の「夏は来ぬ」が、自然に口をついて出てきたりする。私自身もかつて「美しい五月」という短い詩を書いたことがあって、この季節になるとふっと思い出す。立夏の雰囲気にうながされるようにして、自然にすらすらと書けた詩だった。俳句でもすがすがしさを詠んだものが大半だが、なかにはぽろっと掲句のように臍が曲がったようなのもある。来る夏の鬱陶しさを詠んでいる。あっと、その前にお勉強だ。出だしの漢字「螫」を読める方は少ないだろう。むろん私も読めなかったので、漢和辞典を引いたクチだ。音読みでは「せき」、訓では「さ(す)」と読む。つまり「螫(さ)さるべき」と発音し、意味は「毒虫がさ(刺)す」ということだそうだ。ということで句意は、とうとう蚊などの虫に刺され食われる鬱陶しい季節がやってきたなあ、イヤだなあと、そんなところだろう。すがすがしいなんぞと、呑気なことは言ってられないというわけだ。すがすがしさを言う人は、考えてみれば、初夏のごく短期間をイメージしているのだけれど、作者はそのもっと先の本格的な長い夏場を思い浮かべている。それが同じ季語を使いながらも、句の気分の大きな差となって現れてくるのだ。面白いものである。しかし、立夏と聞いて夏の鬱陶しさを思うのは、あながち偏屈な感受性と言うわけにもいかないだろう。それは例えば「立冬」と聞いて、多くの人が長い冬の暗い雰囲気を想起するのと、精神構造的には同じことだからだ。したがって当然、先の臍曲り云々は取り消さねばなるまい。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0652004

 なつかしき遠さに雨の桐の花

                           行方克巳

語は「桐の花」で夏。もう咲いている地方もあるだろう。淡い紫色の花は、それ自体が抒情的である。近くで見るよりも遠くから見て、煙っているような感じが私は好きだ。本場の一つである岩手では県の花にもなっており、花巻あたりの山中で見ると、そぞろ故無き郷愁に誘われてしまう。我知らず、甘酸っぱいセンチメンタルな感情のなかへと沈んでゆく。句の場合には、そんな情景に明るいはつなつの雨が降っているのだから、その美しさはさぞやと想われる。「なつかしき遠さ」は、作者が遠望している桐の花までの実際の距離と、そして郷愁の過去までの時間の経過とを同時に示しているわけで、巧みな措辞だ。変なことを言うようだけれど、この句の良さは、使われている言葉の一つ一つが、いわゆる「つき過ぎ」であるところにあると思った。ひねりもなければ飛躍もない。ただ懐旧の情にそのままべったりと心を寄せている趣が、かえって句を強く鮮かにしているのだと……。妙にひねくりまわすよりも、こういうときには思い切って「つき過ぎ」に身をゆだねてしまったほうが、逆に清潔感や力強い感じを生む。考えてみるにそれもこれもが、素材が桐の花であるからではなかろうか。人がいかにセンチメンタルな感情をべたつかせようとも、桐の花にはそれをおのずから浄化してしまうような風情があるからだろう。そうした風情をよくわきまえた一句だと読んだ。見たいなあ、桐の花。残念なことに、我が家の近隣には見当たらない。「俳句」(2004年5月号)所載。(清水哲男)


May 0752004

 麦秋や教師毎時に手を洗ふ

                           堀内 薫

語は「麦秋(麦の秋)」で夏。感想を書こうとして、待てよと筆が止まった。なぜ教師が「毎時に手を洗ふ」のかが、若い読者にピンと来るだろうかと思ったからだ。「毎時に」は授業時間の区切りごとにということで、普通の感覚からすると、かなり作者は頻繁に洗っている感じを受ける。といってこの場合、べつに作者が特別に清潔好きだから洗うわけじゃない。むろん、気分転換の意味合いもあるだろうけれど、それだけではない。昔の教師は黒板に白墨(はくぼく)で板書きしたせいで、手が白墨の粉まみれになったから、一時限ごとに汚れを落とす必要があったのである。実用としての手洗いなのだ。いまはホワイトボードやグリーンボードに、粉の出ないチョークで文字などを書くのが普通だろう。おかげで粉まみれとは無縁になり、教師は劣悪な白墨禍から救われたというわけだ。したがって、いまの若者には掲句がよくわからないかもしれないと思った次第である。麦畑を一望できる学校。手を洗いながら、作者は麦の秋の情景を見ている。水稲の実りのころも美しいが、麦秋の情景には元気な光りがある。夏に向かって物みな育ち行く勢いを帯びた光りだ。新学期がはじまってクラスも落ち着き、授業にエンジンがかかってくるころでもある。そんな季節だから、手を洗う水の冷たさも心地よく、作者は充実した心境にある。そんな職業人としての喜びが、句の端に洩れ光っているのがわかる。『堀内薫全句集』(1998)所収。(清水哲男)


May 0852004

 長身めく一薫風の鳴り添ひて

                           香西照雄

語は「薫風(くんぷう)」で夏。「鳴り添ひて」というのだから、そよ風ではない。青葉若葉をそよがせて、さあっと吹いてきた強めの風だろう。その風を全身に受けて、作者は瞬間「長身めく」思いがしたというのである。すっと身長が伸びたような感覚。薫風のすがすがしさを詠んだ句は多いが、「長身めく」とはユニークな捉え方だ。しかし、言われてみればなるほどと合点がいく。すがすがしい気持ちは、辺りをちょっと睥睨(へいげい)したくなるような思いにつながるからだ。でも、これはおそらく男だけに備わった感受性でしょうね。女性には睥睨したいというような欲求は、ほとんどないような気がします。身長といえば、私は小学生のころまでは、クラスでも低いほうだった。中学に入って少し伸び、やっと真ん中へんだったか。それが高校生になるころから急に伸びはじめて、あれよという間に170センチを越えてしまい、クラスでも高いほうになってしまった。だが、学校ではともかく、街中でも電車の中でもちっとも「長身めく」といった感じはなかった。通っていた高校が基地の街・立川にあり、家の最寄り駅がこれまた基地の街・福生だったから、周囲にはいつも背の高いアメリカ兵がうようよしていたからである。電車の中で、どうかすると彼らの集団に巻き込まれてしまうことがあり、そうなると見えるのはもうゴツい背中や胸板だけになってしまう。通い慣れた車内とはいえ、とても心細いような気になったことを思い出す。「背の高い奴は気の毒だ。雨になれば先に濡れるからさ」「でも、先に乾くじゃないか」。そんな漫才もあったっけ。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 0952004

 苺ジャム男子はこれを食ふ可らず

                           竹下しづの女

語は「苺」。春の季語と思っている人も多いだろうが、また実際に春先から出回るが、本来の苺の旬は夏だ。冬苺を除いて、野生のものはすべて夏に熟成する。詠まれたのは、昭和十年代初期と思われる。日中戦争が拡大しつつあった時期であり、軍国日本が大いに称揚された世相下であった。すなわち、日本男子たるものは軟弱であってはならぬと戒められた時代の句だ。「苺ジャム」のように甘くてべとべとしたものを好むようでは、ロクな男にはならないぞ。そう作者は警告しているわけだが、夫が急逝したために、女手ひとつで二男三女を育て上げた作者の気概は、おそらく一般男子に向いていたのではなく、息子たちにこそ向けられていたのだろう。この姿勢を「軍国の母」の一典型と見るのはみやすいが、当時の世相の中で、息子たちが人並み以上の立派な日本男子になってほしいと鼓舞する気持ちには、打たれるものがある。何かにつけて、父親がいないせいだと後ろ指などさされたくはない。そのためには、日頃の立居振る舞いから衣食住生活にいたるまで、おさおさ怠りのないようにと、母は二人を叱咤するのである。愚かだと、誰がこの明治の母を嗤えるだろうか。それはそれとして、総じて男は辛党であり女は甘党であるという迷信が、いまだに生きつづけているというのも不思議な話だ。男がひとりで甘味屋に入ると怪訝な顔をされるし、女ひとりが居酒屋で一杯やるのには勇気がいりそうだ。私自身は辛党に分類されるはずだけれど、甘いものが嫌いなわけじゃない。大学に入ったころ保田與重郎の息子と友だちになり、かの日本浪漫派の主軸邸で汁粉食い大会をやらかしたことを思い出した。しかし、以後はだんだんと世間体をはばかりはじめて、いつしか諾々と迷信に従ってしまった結果の辛党であるようだ。この主体性無き姿勢をこそ、私の常識では軟弱と言うしかないのだが。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


May 1052004

 ビール麦と聞けば一入麦の秋

                           酒井康正

ちめん、黄金色に染まった麦畑。作者はビール好きなのだろう。実っているのが「ビール麦」だと聞き知って、なおさらにその美しさが「一入(ひとしお)」目に沁みている。いや、既に喉元あたりに沁みているのかもしれない。と、これは冗談だが、私のようなビール党にはよくわかるし、嬉しい句だ。俗に言うビール麦は大麦の種類の一つで、通常は「二条大麦」という品種を指す。麦飯などに使う「六条大麦」よりも粒が大きく揃っていて発芽力も強いので、ビールの原料には適しているそうだ。これをモルツにしてからホップを加えて醸造するわけだ。ただ残念なことに、私はビール麦の畑を見たことがない。見ただけで小麦と大麦との識別がつくように、ビール麦かどうかはすぐにわかるものなのだろうか。調べてみると、二条大麦の大産地は北九州地方だという。ちょうどこの週末に久留米市に出かける用事があるので見てきたいが、この地方の二条大麦は醸造用ではない(家畜飼料用など)という資料もあって、このあたりは地元の人に聞いてみなければと思う。相棒のホップについては数年前に遠野市(岩手県)で見ることができ、それこそ「一入」目に沁みたのだった。ビールの本場ドイツのホップ畑の広大さは聞いているが、ビール麦畑もさぞや壮観だろうな。書いているうちに、ミュンヘンあたりの古い天井の高いビャホールで、楽士たちに「リリー・マルレーン」でもリクエストして一杯やりたくなってきた。「ゲルマン攻めるにゃ刃物はいらぬ、ビールがたっぷりあればいい」。イカン、イカン。『百鳥俳句選集・第1集』(2004)所載。(清水哲男)


May 1152004

 無聊の午後のラジオが感じいる軽雷

                           山高圭祐

語は「軽雷(けいらい)」で夏。あまり聞かない言葉だが、各種歳時記の「雷」の項には載っている。さして雷鳴の強くない雷のことだろう。無聊(ぶりょう)をかこつ作者は、何もすることがないのでラジオをつけっぱなしにしている。聞きたいからではなく、ただなんとなくスイッチを入れたのだ。聞くともなく聞いていると、そのラジオがときどきジジッザザッと雑音を発する。そのたびに作者は「はてな」とばかりにラジオに目をやっていたが、そのうちに気がついた。きっとどこかで微弱な雷が発生しているに違いないと。それがどうしたというわけでもないが、けだるい夏の午後、ラジオだけが律儀に外界に反応している図は、なおさらに作者の倦怠感を増幅させたことだろう。1959年(昭和三十四年)の作だから、このラジオは真空管方式のものだと思われる。トランジスタ方式の小型ラジオも普及しつつはあったけれど、まだ高価だった。一万円近くしていたのではなかろうか。学生などの若者にはもとより、一般サラリーマンにも高嶺の花であった。当時私は学生だったが、周辺に持っている奴は一人もいなかった。したがって、当時の文芸などでラジオとあれば、まず真空管方式のものと思って間違いはない。真空管についてはよく知らないが、感度が敏感というよりも、受信がアバウトで、しかも音の波形が崩れやすかったのではあるまいか。だから、ちょっとした環境の変動で、すぐに雑音を発したのだろうと思う。そこへいくとトランジスタは緻密に受信し、増幅しても波形は崩さない。まさに革命的な発明であり、発明者がノーベル賞を受けたのも当然だ。こうしたことを考え合わせると、掲句は真空管ラジオを知らない世代には、厳密な意味では解釈不能な作品と言ってもよさそうである。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


May 1252004

 走り梅雨ホテルの朝餉玉子焼

                           馬渕結子

の週末、久留米(福岡県)に出かける。気になるので週間天気予報を見てみると、明日あたりからずうっと福岡地方には曇りと雨のマークが並んでいる。北九州の梅雨入りは、平年だと来月初旬なので、明日からの天候不良は「走り梅雨」と言ってよいだろう。いまどきから本格的な梅雨入りまでの旅は、これだから困る。日取りが近づかないと、なかなか天気が読めないのだ。五月なので晴天薫風を期待しているだけに、がっかりすることも多い。しかし、旅程は変えられない。ま、雨男だから仕方がないかな……。作者もまた、そんな天候のなかで旅をしている。降っているのか、あるいはいまにも降り出しそうなのか。ホテルで朝食をとりながら、空ばかりを気にしている。雨降りとなると、今日のスケジュールを修正しなければならないのかもしれない。そんなときに、ふっくらと焼き上がった黄金色の「玉子焼」は、なぜか吉兆のように見えるから不思議である。いまにもパアっと日がさしてきそうな、そんな予感を覚えて、作者の気持ちは少しやすらいでいるのだ。むろん気休めにすぎないとはわかっていても、旅の空の下では、普段ならさして気にもとめない玉子焼ひとつにも心を動かされることがある。そして、これも立派な旅情だと言うべきだろう。もしかすると、句の玉子焼は目玉焼なのかもしれないと思った。だとすれば、気休めにはそのほうがより効果的なような気がする。「目玉焼きは太陽である」というタイトルのエッセイが、草森紳一にあったのを思い出した。『勾玉』(2004)所収。(清水哲男)


May 1352004

 泡盛や汚れて老ゆる人の中

                           石塚友二

語は「泡盛(あわもり)」で夏。沖縄特産の焼酎(しょうちゅう)ゆえ「焼酎」に分類。ウィスキーやブランデーと同じ蒸留酒だ。泡盛の名は、粟(あわ)でつくったとする説、醸造するときに泡が盛り上がったからとする説、杯に盛り上がるからとする説、また泡盛の強さを計るのに、水を混ぜて泡のたたなくなる水量で計ったことからとする説など、いろいろある。作者は、一人で静かに飲んでいるのだろう。酒場でもよし、家庭でもよし。飲みながら、つくづくと「オレも年をとったものだ」と慨嘆している。仲間と泡盛をあおって騒いだ若き日々や、いまいずこ。思い出せば、しかしあの頃は純真だった。純情だった。それが「人の中」で揉まれ、あくせくと過ごしているうちに、いつしか心ならずも「汚れて」しまった。「老ゆる」とは、年齢を重ねるとは汚れていくことなのだ。ゆったりした酔い心地のなかで、作者はおのれの老いを噛みしめている。ひとり泣きたいようなな気分なのだが、一方では、そんな自嘲の心持ちをどこか楽しんでいるようにも写る。素面のときの自嘲ではないから、自嘲とはいっても、どこかで自分を少しだけ甘やかしている。被虐の喜びとまではいかないけれども、掲句には何かそこに通じる恰好の良さがある。私には、そう感じられた。でも、決して意地の悪い読み方だとは思わない。むしろ、好感を持つからこその解釈である。自嘲にせよ、自分の老いを言う人には、まだ「人の中」での色気を失ってはいない。心底老いた人ならば、もはや表現などはしなくなるだろう。それくらいのことが、やっとわかりかけてくる年齢に、私は差し掛かってきたようである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 1452004

 夏未明音のそくばく遠からぬ

                           野沢節子

の夜明けは早い。この時期でも、もう四時半頃には空が白んでくる。「未明」とはあるが、早朝のそんな時間帯だろう(季語「夏の暁」に分類)。早起きの鳥たちは鳴きはじめ、新聞配達の人の足音もする。一日がはじまりつつあるのだ。「そくばく」は「若干」の意の古語だ。「そこばく」と言ったほうが、思い当たる人は多いだろうか。そして、この「音のそくばく」のなかには、「遠からぬ」それも混じっている。朝食の支度のために起きだした母親の気配は、誰にも懐かしく思い出される身近な音のひとつだ。むろん、作者はまだ布団の中にいて、夢か現かの状態でそれらの音を耳にしている。そういうときには、いまの自分が大人なのか子供なのかというような意識はない。聞こえてくる音も、現実のそれかか昔のそれなのかの区別もない。だから、ふと目覚めた作者の耳には、現実の音と記憶の中の音とがないまぜになって聞こえている。すなわち距離的にも時間的にも「遠からぬ」と詠んだわけで、かつての音もまたいまの音ですら、とても懐かしい響きをもって蘇ってきたと言うのである。うとうととろとろとした心地よい状態のなかで、こみあげてくる懐かしさ。これぞ至福のときと呼んでよいのではあるまいか。残念なことに私は早起きだから、あまりこうした体験はない。たまには、すっかり明るくなるまで寝ていたいとも思うけれど、ついつい起き上がってしまう。遅寝をすると、なんだかソンをしたような気になる。貧乏性なのである。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


May 1552004

 我鬼窟に百鬼寄る日や夏芭蕉

                           久米三汀

に「芭蕉」といえば秋の季語。「夏芭蕉」なら、歳時記的には「玉巻く芭蕉」のことだろう。初夏、固く巻いたままの新葉が伸び、薄緑の若葉がほぐれてくる。芭蕉の最も美しい季節だ。掲句は我鬼窟(芥川龍之介邸)で行われる句会の案内状に、三汀(作家・久米正雄)が記したものだ。仲間内向けのちょっとした挨拶句だから、調子は軽い。句会の様子を伝えた「文章倶楽部」(大正八年八月号)によると、参加者は主人の龍之介、宗匠格の三汀、室生犀星、滝井孝作、菊池寛、江口渙のほか、谷崎潤一郎の義妹・勢以子や大学生など十数名。まさに「百鬼」だ。それにしてもこれだけの人数が集まれば、冷房装置などない頃だから、暑かったでしょうね。詠んだ句を団扇に書いて、それでパタパタやったらしい。そんな調子だから、取り立てて見るべき句も見当たらない。いわゆる「遊俳」気分の座であった。この句を紹介した本『文人俳句の世界』で、小室善弘が気になることを書きつけている。「これはこれで文人交歓の図としてとがめだてするにも及ばないことだが、同じ時期に「胸中に冬の海ある暗さかな」と凄愴な象徴句を作り得る三汀が、文士仲間の宗匠におさまって、せっかくの素質を調子の低い遊びのなかにうやむやにしてしていく気配が感じられるのは、残念な気がする」。遊びだからといって調子を下げているうちに、いつしか下がりっぱなしになってしまう。その怖さは、たしかにある。本格的な結社の宗匠にだって、現にそういうことは起きている。「遊びだけど、真剣に遊ぼう」と言った辻征夫の言葉を、あらためて思い出した。(清水哲男)


May 1652004

 サルビアを咲かせ老後の無計画

                           菖蒲あや

語は「サルビア」で夏。真夏の花のイメージが強いが、もう咲いているところもある。一年草で、花期は長い。一夏をまるで炎のように燃え上がり、やがて燃え尽きてしまう。そんなイメージの花だ。掲句はこのサルビアの特長をよく捉えて、「老後の無計画」に引き寄せている。作者には「サルビアを咲かせ」ている現在の手応えに比べると、不確定要素の多すぎる老後への計画などは漠然としすぎていて頼りないのだ。いつかはサルビアのように、我が身も燃え尽きてしまうのは確かだ。が、その燃え尽きる寸前までの計画を立てるといっても、どこから何をどのように考えていけばよいのだろう。気にはしながらも、ついつい無計画のままに日を送りつづけてきた。毎夏この花を咲かせることくらいしか、私には計画など立てられそうもない。ままよと開き直ったような気持ちも含まれているのだろう。サルビアを咲かせない私にも、身につまされる句だ。書店には定年後や老後の過ごし方みたいな本がけっこう並んでいるけれど、たまに拾い読みをしてみても、何の役にも立ちそうもない気がする。定年を控えた人が、よく老後の楽しみを言うのだが、あれも聞いていると絵空事のように思えてならない。漠然と世間が思い描いている老後のイメージと現実のそれとは、大きな食い違いがある。その食い違いを知るには実際の老人になってみなければ、誰にもわからないから厄介だ。作者のみならず、老後に無計画で臨む人のほうが、むしろ一般的なのではあるまいか。そんなことを思ってみたところで、何がどうなるわけでもないけれど。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 1752004

 応援歌泰山木は咲かむとす

                           草深昌子

語は「泰山木(たいさんぼく)の花」で夏。はつなつ讃歌。爽快な句だ。近所の学校からか競技場からか、元気あふれる応援歌が聞こえてくる。天気は上々なのだろう。見上げると、泰山木の花が大きなつぼみを今にも開こうとしていた。応援歌を聞いて下うつむく人はあまりいないだろうから、作者の視線の方向には無理がなく、お互いに何の関係もない応援歌と泰山木とがごく自然にしっくりと結びついている。「咲かむとす」の語勢も良く効いていて、ものみな生命を吹き上げるこの季節の喜びをしっかりと表現した佳句だ。実に、気持ちが良い。私の通っていた高校には立派な泰山木があったので、掲句を読んだときにすぐ思い出した。が、当時の私は精神的にかなり屈折した(ひねくれた)状態にあったので、句のような情景があったとしても、素直には反応しなかったろうとも思われた。何を見ても何があっても、暗いほうへと心が傾いていってしまっていた。なかなか素直になれない。よくよく考えてみると、つい最近まで多少ともつまらないことに拘泥する癖があったと思う。いや今でも癖は抜けていないかもしれないのだけれど、ようやく掲句の作者と同じ心持ちになれるようになってはきており、これまでの屈折の時期を客観視できるようにもなってきた。ずいぶんと長い間、素直さを獲得できないでいたことに、下世話に言えば大損だったと舌打ちしたい気分だ。素直になれることも、きっと才能のうちなのだろう。『邂逅』(2003)所収。(清水哲男)


May 1852004

 顔面の蚊を婦人公論で叩く

                           佐山哲郎

が出はじめた。油断して網戸を開けておくと、どこからともなく、部屋の中にプーンと入ってくる。この音を聞くと「もう夏なんだなあ」とは思うが、べつに特段の風情を感じるわけじゃない。作者は顔面にとまった蚊を、たまたま読んでいた「婦人公論」で叩いたのだ。雑誌を傍らに置いてから叩いたのでは逃げられてしまうので、緊急やむを得ず雑誌で打ったということだろう。寝転んで読んでいたのかもしれない。ただそれだけのことだが、なんとなく可笑しい。可笑しさを生んでいるのは、むろん「婦人公論」という固有の雑誌名をあげているからだ。単に雑誌で叩いたと言うのとは違って、変な生々しさがある。妙な抵抗感もある。事もあろうに、何もよりによって(ではないのだけれど)「婦人公論」で叩くことはないじゃないか。と、読者はふっと思ってしまう。というのも、この雑誌が持っている(どちらかというと)硬派のイメージが、蚊を叩くというような日常性べったりの行為にはそぐわないからなのだ。しかも、叩いたのは「顔面」だ。インテリ女性がいきなり男の顔を平手打ちにしたようなイメージも、ちらりと浮かぶ。だから、よけいに可笑しい。これが例えば「女性自身」や「週刊女性」だったら、どうだろうか。やはり可笑しいには違いないとしても、その可笑しさのレベルには微妙な差があるだろう。俳句は、名所旧跡神社仏閣あるいは地方名物などの固有名詞を詠み込むのがお得意である。掲句は商標としての固有名詞を使っているわけだが、その意味からすると俳句の王道を行っていることになる。そのことを思うと、またさざ波のように可笑しさが増してくるのは何故なのだろう。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)


May 1952004

 田植うるは土にすがれるすがたせり

                           栗生純夫

に田植えが終わった地方もあるし、これからのところもある。先日の久留米の宿でローカルニュースを見ていたら、長崎地方の田圃で開かれた「泥んこバレー」の模様を写していた。水を入れた田圃で転んでは起きしてのバレーボールは愉快だが、単に遊びというだけでなく、こうやって田圃を足でかき回しておくと、田植えに絶好の土ができるのだそうだ。いずれにせよ、いまはほとんどが機械植えになっているので、農家の人々ですら、こんなことでもやらないと田圃の土に親しむことはなくなってしまった。手で植えたころの苦しさを思えば、田植え機の登場は本当に画期的かつ革命的な出来事だった。実際、手で植えるのは辛い。私の子供の頃は、この時期になると学校が農繁期休暇に入り、みな田圃にかり出された。イヤだったなあ。暗いうちから起きて、日が昇るころには田圃に入る。あの早朝の水の冷たさといったら、思い出すだに身震いがする。それから日没まで、休憩は昼食時とおやつの時間のみという条件の下で働くのだ。疲れても、適当に切り上げることはできない。というのも、集落のなかでは全戸の田植えの日取りが決まっており、お互いに相互扶助的に人手を出し合って植えていたからである。切り上げて明日にしようと思っても、明日は他家の田植えが待っているというわけだ。午後ともなると、子供のくせに老人のように腰を叩きながらの作業となる。そんな必死のノルマのほんの一角だけを担った体験者からしても、掲句はまことに美しく上手に詠まれてはいるが、作者の傍観性がやはり気になる。かつての土にすがって生きる「すがた」とは、このようなものではない。もっと戦闘的であり策略的であり、もっと雄々しくて、しかし同時に卑屈卑小の極みにもどっぷりと浸かった「すがた」なのであった。宇多喜代子『わたしの名句ノート』(2004)所載。(清水哲男)


May 2052004

 若からぬ一卓ビールの泡ゆたか

                           中嶋秀子

く見かける情景だ。何かの会合の流れなどで、もはや「若からぬ」人たちがビールの卓を囲んで談笑している。大きなジョッキになみなみと注がれた「ビールの泡」が、その場のなごやかさを更に盛り上げている。このときに「ゆたか」とは、そうやって集い楽しむ人たちの、ささやかながらも充実した時空間の形容だろう。長い人生を生きてきた人々ならではの楽しみ方が、そこにある。若者の一団からは感じることのできない、ゆったりとした雰囲気は、傍から見ていても微笑ましいものだ。若い頃から私は感じてきたが、ビールが似合うのは若者よりも年配者のほうではないだろうか。ビールのコマーシャルなどでは若者が一気に飲み干すシーンが多いけれど、あんなに飢えたように飲むのでは、本当はそんなに美味くないと思う。喉の渇きを癒すのならば、むしろ水を一気に飲むほうが効果的だろう。それにあんなに急いで飲むと、後がつづくまい。ビールの味がわかるまい。半世紀近く飲みつづけてきた体験からすると、泡が完全に消えるまでの間にゆっくりと飲むのが、最良な方法のような気がする。だから生ビールであれば、できれば自分のペースに会わせた泡の量を指定できる店で飲むことだ。そんな店は多くはないが、銀座のライオンなどではちゃんと泡の量を注文できる。注ぎ手がよほど優秀でないと無理な注文になるけれど、あの店では決まって泡七割と指定する常連客がいるのだという。むろん「若からぬ」人である。支配人から聞いた話だ。他にもいろいろ聞かせてもらったが、美味く飲むためには、なるべく物を食べないことも条件の一つだった。そしてその点だけは、私は彼に誉められた。私の大いに自慢とするところだ。『約束の橋』(2001)所収。(清水哲男)


May 2152004

 子供地をしかと指しをり蚯蚓這ひ

                           高浜虚子

語は「蚯蚓(みみず)」で夏。「子供」とあるが、まだ物心がついたかつかないかくらいの幼児だろう。値を這う蚯蚓を見つけて、真剣な表情で指差している。不思議そうにしたり、気持ち悪がったりしているのではない。かといって、発見を誰かに告げようとしているのでもない。ただひたすらに「しかと」、地に動く物を指差している。強いて言えば、自分の発見を自分で「しかと」確認しているのだ。幼児はしばしばこういう所作をして、大人を微笑させたり苦笑させる。何を真剣に見つめているのかと思えば、大人の分別ではとるに足らぬものだったりする。幼児には、池の鯉も地の蚯蚓やトカゲも等価なのだから。そこがまた、なんとも可愛らしく思えるところだ。こういう句は、想像では詠めない。しかし、実際に目撃したとしても、なかなか詠めるものではないだろう。そこはさすがに虚子だけのことはあり、幼児の幼児たる所以の根っ子のところを見事に写生してみせている。しかもこの写生は、絵画的なスケッチやスナップ写真などでは写せないところまでを写し込んでいて、舌を巻く。絵画や写真では、どうやっても「しかと」の感じが出せそうもないからだ。幼児なりの「しかと」の気合いは、外面的な様子には現れにくい。その場にいて、ようやくわかる態のものである。それを虚子は、それこそしっかりと「しかと」の措辞に託した。いや、なんとも上手いものである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2252004

 枇杷抱けば ピカソの女が泣くような

                           伊丹啓子

語は「枇杷(びわ)」で夏。「ピカソの(描いた)女」は、言うまでもなく抽象化されている。したがって、この句もまた抽象化された表現として読む必要があるだろう。小さな枇杷の実をたとえ複数個であろうとも、「抱けば」とするのは具象表現としては妙なのだが、抽象化したそれと読めば違和感はない。私は、たった一個の枇杷だと見る。そのほうが、抽象度が高まるからだ。一個の枇杷を抱く気持ちで両掌で包んだときに、いきなりピカソの女が泣くような構図になったと言うのである。抽象は物象を形骸化することではなく、その本質を掴み浮き上がらせることだ。このときに鼻や目の位置がおかしいとか、身体各部の釣り合いがとれていないといった日常的常識的な目は無効となる。ピカソの女は、宇宙的自然的な時空間とのバランスがとれていれば、それでよいのだからである。一切の虚飾や虚妄を排された一個の生命の姿が、そこにある。だから「泣く」にしても、忍び泣きなどではなくて、心底から込み上げてくる感情の吐露でなければならない。掲句は、両掌にそっと枇杷を包んで湧いてきたいとおしいような感情がぐんと高まってきて、その純粋な気持ちが、ピカソの女のそれと無理なく自然に通じ合ったのだ。いまならば、ともに泣けるだろう。そのような一種の至福の心境が、良質な抒情性を伴って述べられている。作者のこの孤独のありようは、枇杷の色さながらに、むしろ明るい。なお、俳句の文字間空け表記に私は必ずしも賛成ではないのだが、この句の場合には好感が持てた。『ドッグウッド』(2004)所収。(清水哲男)


May 2352004

 玻璃皿の耀りに輪切りのパイナップル

                           住吉一枝

語は「パイナップル」で夏。困ったことに、「耀り」の読み方がわからない。「耀」は訓読みでは「かがやき」としか読まないはずだが、「耀り」とは、はてな。仕方がないから、いちおう我流で「ひかり」と読んでおくことにする。何とも頼りない話で申し訳ないのだけれど、読めなくても句意はよくわかる。しかも、この読めない「耀り」という漢字が、掲句にはふさわしいものであることも……。私などの世代には、長い間、パイナップルやバナナは憧れの果実であった。高価でもあったが、品薄でもあったので、なかなか口に入ることがなかった。たまさか幸運にも食べる機会があると、胸がわくわくしたものである。いまでこそ果実店には生のパイナップルが置かれているが、子供の頃に胸ときめかせたのは生のものではなくて、缶詰のものだった。俗に「パイ缶」と言う。生のパイナップルなどは、写真か絵でしか見たことがないという時代。かの特攻隊の出撃前の最後の食事には赤飯と缶詰のパイナップルが出たというレポートもあるくらいで、とにかく貴重に超の字がつくほどの果実だったのだ。句のパイナップルは「輪切り」とあるから、むろん缶詰のそれである。憧れの果実が特別な「玻璃(ガラス製)皿」に盛られた様子に、目を輝かせて喜んでいる作者の気持ちが痛いほど伝わってくる。まさに「耀」たりではないか。そして気がつけば、私たちの周辺には憧れるほどの食べ物は無くなっている。それだけ世の中が豊かになった証明ではあるが、なんだか淋しい時代になってきたような気もする。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ 早速 読者の方より ]「耀り」は「てり」と読むとのご教示がありました。当て読みなのでしょうが、なるほどと納得です。ありがとうございました。


May 2452004

 手渡しの重さうれしき鰻めし

                           鷹羽狩行

語は「鰻(うなぎ)」で夏。掲句のように、作者は身構えない句の名手だ。何の変哲もない日常の断片を捉えて、見事にぴしゃりと仕立て上げる。天性のセンスの良さがなせる業としか言いようがなく、真似しようとして真似できるものではないだろう。その意味では、虚子以来の名人上手と言うべきか。前書に「茨城・奥久慈」とあるが、ここが鰻の産地であるかどうかは知らない。いや、むしろ産地ではないからこそ、思いがけなく出てきた「鰻めし」と解したほうが面白そうだ。旅の幹事役が一人ひとりに手渡しているのは、駅弁かどこかの店の折詰である。包装紙から中身が鰻めしであるとはすぐに知れたが、いささか小ぶりに感じられた。だが、実際に手渡されてみると、意外にもずっしりとした手応え。思わずも「うれし」くなってしまったというそれだけの句であるが、実に巧みに人情のツボを押さえている。いわば人の欲のありようを、さりげなくも鋭く描き出している。同じものならば少しでも重いほうが、あるいは大きいほうが得をしたような気になるものだ。べつに作者はがつがつしているわけではないけれど、こうした他愛ない欲の発露にうれしくなる自分(ひいては人間というもの)に小さく驚き、むしろ新鮮味すら覚えているのだと思う。誰にでも覚えのあることながら、このような些事を句にしようとする人は皆無に近い。句作において、この差は大きい。作者の天性を云々したくなる所以である。『十四事』(2004)所収。(清水哲男)


May 2552004

 甚平や概算という暮し方

                           小宅容義

語は「甚平(じんべい)」で夏。薄地で作った袖無しの単衣。仕事着やふだん着に使う。私は持っていないが、素肌に着ると涼しそうだ。掲句について、作者は「年を取った一人暮しは全く自堕落という外はない。命までもだ」と言っている。自嘲であるが、ざっくりと甚平を着ていると「自堕落」ぶりが助長されるような気持ちになるのだろうか。たしかに、身体の一部を多少とも締めていないと気持ちのゆるみは出てくるだろうが……。「概算」は、今風に言えば「アバウト」の意だろう。大雑把というよりも、いい加減というニュアンスに近い。何事につけ、投げやりになる。いい加減に放っておきたくなる。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、面倒だから適当に放置しておく。そしてこの姿勢が高じてくると自虐的になり、自嘲の一つも出てくるようになる。アバウトな「暮し方」に、私は若いころには憧れた。呑気でいいなあと、無邪気に思っていたからである。ところがだんだん年を取ってくると、他人の目にはどう写るかは知らないが、物事をアバウトに処することはかなり苦しいことだとわかってきた。心身が衰えてきたせいで、諸事に面倒を感じるようになり、つい手を抜く。抜きたくなる。豪儀な手抜きではないのだ。じりっじりっと、社会との接点や付き合いのレベルを下げていかざるを得ない。この自覚は、苦しいのだ。楽ではない。作者の自嘲も、おそらくはそのふたりに根があるのではないのかと、他人事とは思えない。実は甚平は前から欲しかったのだけれど、ずいぶんとヤバそうだ。止めとこう。「俳句」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


May 2652004

 青田風チェンジのときも賑やかに

                           中田尚子

語は「青田(風)」で夏。一面の青田を渡ってくる風が心地よい。そんな運動場で行われている少年野球だ。両チームともに元気で、試合中にもよく声が出ているが、攻守交代時にもすこぶる賑やかである。周囲で応援している親や大人の緊張ぶりに比べて、少年たちのほうは伸び伸びと屈託がない。私が子供だったころの小学校の校庭を思い出す。清々しい句だ。ただ思い出してみると、少年たちが賑やかなのは、必ずしもリラックスしているときだけではなかった。緊張感が増してくると、逆にそれを和らげようとして、妙に饒舌になったりはしゃいでみたりする奴も出てくるのだ。接戦ともなれば、異常に騒々しく賑やかになったりする。ふだんは無口な奴が、奇声を発したりもする。やはり勝負事は、なかなかクールでいるわけにはいかないようだ。そしてたしかに、大声を出してみると、緊張感は多少とも薄らぐのである。いま住んでいる家の近くに立派なグラウンドがあって、ときたま少年野球の公式戦に出くわすことがある。先日見物していたら、チェンジでベンチに帰ってくる小学生たちに、しきりに檄を飛ばしている大人のコーチがいた。円陣を組ませては、何やら叫ばせている。遠くからでは何を言っているのかわからないので、ベンチ裏まで近づくと、コーチの指示がはっきり聞こえてきた。「いいか、これは英語だからお前らにはわからんだろうが、大事な言葉だぞ。さあ、元気な声でいってみよう。『ネバー・ネバー・サレンダーッ !』」。つづいて子供たちが唱和していたが、いまひとつ元気な声が出てこない。やっぱり意味不明の言語では、気合いが入らないのだろう。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


May 2752004

 五月雨や御豆の小家の寝覚がち

                           与謝蕪村

語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。(清水哲男)


May 2852004

 東伯林の新樹下を人近づき来

                           殿村菟絲子

語は「新樹(しんじゅ)」で夏。「新緑」が主として若葉をさすのに対し、木立をさす。崩壊して十五年になる伯林(ベルリン)の壁は、もう伝説化していると言ってよいだろう。句は、その伝説の中で詠まれた。前書きに「西伯林、東西独乙を劃す壁肌寒し」とある。ポツダム広場の物見台あたりから、壁の向こう側を眺めたのだろう。道を歩いていては、新樹はともかく「人」は見えない。眺めやれば、こちら側と似たような光景が広がっていて、ゆっくりと人が近づいてくるのも見える。何の変哲もない情景だが、新樹や人は指呼の間にあっても、こちらからあちらまでの政治的な距離はほとんど無限に遠いのである。こういうときには壁の理不尽を思うよりも、頭の中が白くなる感じがするものだ。経緯は省略するが、私は一度南北朝線を分つ板門店に立ったことがあるので、作者の気持ちがよくわかるような気がする。よく南北会談に使われる会議場が境界線上にあり、室内はマイクのコードで室外も黒いラインで、南北が分たれていた。室内の南北移動は自由だったが、室外のラインを一歩でもまたげば不法入国だ。両側には鼻面をつきあわさんばかりにして、完全武装の兵士たちが見張っている。凄い緊張感を覚えたと同時に、白日夢でも見ているような気分だった。作者もまた、そんな気持ちだったのだと思う。美しい自然の中を、何事もないように人がこちらに向かって歩いてくる……。眼前の現実ではありながら、しかしそれは夢に等しいのである。『牡丹』(1967)所収。(清水哲男)


May 2952004

 外郎たべる五月のゆきどまり

                           服部智恵子

古屋名物「外郎(ういろう)」。名前の由来を、老舗「青柳」のHPより引いておく。「およそ600年前の中国が元の時代、礼部員外郎(れいほうえんういろう)という薬の調達をする官職にあった陳宗敬(自ら陳外郎と称した)が、日本に帰化し、せきや痰に効く薬を伝えた。その子宗奇は室町幕府三代将軍の足利義満に招かれこの家伝の薬を作り「透頂香」あるいは「ういろう」と呼んだ。また、客を接待するためにお菓子の製法も伝えたが、それが黒色・四角で「透頂香」と似ていたところからお菓子の方も「ういろう」と呼ばれるようになりました」。作者は、このもっちりした歯触りの菓子を食べながら、どういう事情からかはわからないが、五月も末になってにっちもさっちも行かなくなった状況に憮然としている。一年十二ヶ月を道に例えれば、いちばん「ゆきどまり」を感じるのは、年末の十二月か決算期の三月あたりが一般的だろう。そこへいくと、五月はすうっと通り抜けやすい感じが強い。だからこそ作者も憮然としているのであるが、しかし外郎を食べているくらいだから、事態はそんなに深刻ではないのかもしれない。歯切れという意味ではいささかもたつく外郎と、清々しい月のイメージからは外れた閉塞感との取り合わせが、どことなく滑稽にも思えてくる。もっともこの句を、あまり理詰めに散文的にパラフレーズすると、かえって味が落ちるような気もする。作者は実景や心情を帰納的に表現したのではなくて、自分のなかで整理のつかない心持ちを「たとえば、こんな感じかなあ」と演繹的に詠んでみたのだと解するほうが面白そうだ。そういう詠み方も、無論あってよい。『褻と晴と』(2003)所収。(清水哲男)


May 3052004

 交響曲運命の黴拭きにけり

                           野見山朱鳥

語は「黴(かび)」で夏。決して大袈裟ではなく、掲句をパッと理解できる人は、国民の半分もいないだろう。俳句もまた、年をとる。年を重ねるにつれて、詠まれた事象や事項が古くなり、忘れられ、新しい世代の理解が得られなくなる。淋しいことではあるが、仕方のないことでもある。「交響曲運命」はベートーベンの曲だが、ここではその曲の入ったレコードのことを言っている。それも、蓄音機で聴くSP(Standard Play)盤だ。SP盤の材質にはカーボンに混ぜて貝殻虫の分泌液が使われていたので、梅雨期にはよく黴が生えたし、ダニの温床になることすらあったという。だからこうして黴を拭う必要があったわけで、たまたまそれが「運命」という曲であっただけに、作者はさながらおのが運命を念入りに拭ったような晴朗の心持ちを覚えたのだろう。いまのCDとは違って、SP盤は割れやすかったし、交響曲などの長い曲は何枚組にもなっていた。それらを一枚いちまい拭い陰干しにしたりと、実に丁寧に取り扱って聴いた。だから聴く時には、まさに傾聴というにふさわしい聴き方をしていたのである。音楽好きの私の先輩などが、例外なく交響曲のディテールに詳しいのも、このためだろう。SP盤がLP(Long Play)盤にほぼ取って代わられたのは、1960年(唱和三十五年)と言われている。とすれば、既に四十数年前のことだ。多くの人に、掲句がわからなくても無理はない。なお、この句については一度書いたことがあるが、少し感想が動いたので再掲することにした。『天満』(1954)所収。(清水哲男)


May 3152004

 濡れるだけ濡れて帰る子てまりばな

                           坂石佳音

語は「てまりばな(繍毬花・手毬花)」で夏。別名、おおでまり。我が家の近辺では「こでまり」はよく見かけるが、「おおでまり」は見たことがない。何度か行った陸奥では、逆に「おおでまり」が多かった。葉も花の形も、ちょっと紫陽花に似ている。そういうこともあってか、雨に似合う花だ。そんな白い花が咲いている道を、子供が「濡れるだけ濡れて」帰っていく。駆けているのでもなく、とくに急ぎ足というのでもない。覚悟を決めたと言わんばかりに、普通の速度で歩いている。家が遠いのだろう。作者は擦れ違ったのか、それとも縁先辺りから見ているのだろうか。いずれにしても、ずぶぬれの子を可哀想だと思うよりも、むしろ一種の小気味よさを感じているのだ。白秋の童謡では雨に降られた子を「ヤナギノネカタ」で泣かせたりしているが、そうしたセンチメンタルな印象を微塵も与えない子供の姿に、大いに感じ入っている。最近では見かけない光景だが、昔の田舎道ではしばしば見かけた。いや、見かけたどころか、自分が「濡れるだけ濡れ」たことは何度もある。もうジタバタしてもはじまらないと、ずぶぬれで歩いている気持ちは、あれでけっこう爽やかなものだ。慌てず騒がず、いささかヒロイックな気分すらしてきた。濡れた服や靴の後始末を考えなくてもよいという特権もあったけれど、少しく日常性を逸脱した行為が嬉しかったのだと思う。子供は掟破りが好きなのだ。かつて子供だった作者は、見かけだけではなく、そうした子供心にも思いを巡らせているのではあるまいか。(清水哲男)




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