全国的に天気が悪いようですね。こんなゴールデンウィークも珍しい。明日は立夏。




2004ソスN5ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0452004

 世の隅の闇に舌出す烏貝

                           北 光星

語は「烏貝」で春。淡水産の二枚貝で、生長すると黒くなるから「カラスガイ」と言う。その真っ黒な貝が「闇」に沈んで、ニタリと舌を出している。人間からすると「世の隅」に忘れられ、いじけているようにも写るのだが、どっこい実はそうではなくて、ずる賢くもしたたかに生きているぞというわけだ。人の目に見えないところで舌を出している様子を想像すると、ぞっとするような不気味さがある。このことはまた、人間社会のなかでも起きていることだろう。ところでどんな歳時記にも、烏貝は食べると泥臭くて不味いと書いてある。生まれて初めてパリに行ったときに「ムール貝」が山ほど出てきて結構美味かったが、あれは「烏貝」とは違う種類なのだろうか。そのときには、たしか日本で言う「烏貝」だと教えられたような記憶があるのだが……。岡本かの子にも、こんな紀行文がある。「日本は四方(しほう)海に囲まれているから海の幸(さち)は利用し尽している筈だが、たった一つフランスに負けていることがある。それは烏貝がフランス程普遍的な食物になっていないことだ。日本では海水浴場の岩角にこの烏貝が群っていて、うっかり踏付(ふんづ)けて足の裏を切らないよう用心しなければならない。あんなに沢山ある貝が食べられないものかと子供の時によく考えたことだが、それがフランスへ行って、始めて子供の時の不審を解決することが出来た。烏貝はフランス語でムールと云う。このムールのスープは冬の夜など夜更(よふか)しして少し空服(くうふく)を感じた時食べると一等いい」。ただ、海(水浴場)にいるとあるから、淡水産ではない。となると、かの子もパリで私に教えてくれた人と同様に、別種の貝と混同していたのだろうか。読者諸兄姉のご教示を仰ぎたい。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0352004

 乾きゆく音をこもらせ干若布

                           笠松裕子

語は「若布(わかめ)」で春。井川博年君から、彼の故郷(島根県)の名産である「板わかめ」をもらった。刈ってきた若布を塩抜きしてから板状に乾かして、およそ縦横30センチほどにカットした素朴な食品だ。特長は、戻したり特別な調理をしたりすることなく、袋から出してすぐに食べられるところである。早速食べてみて、あっと思った。実に懐かしい味が、記憶の底からよみがえってきたからだった。子供の頃に、たしかに食べたことのある味だったのだ。ちょっと火にあぶってからもみ砕いて、ご飯にかけたり握り飯にまぶたりしていたのは、これだったのか……。住んでいたのが島根隣県の山口県、それも山陰側だったので、島根名産を口にしていたとしても不思議ではない。それにしても、半世紀近くも忘れていた味に出会えたのは幸運だ。こういうこともあるのですね。そこで、誰かがこの懐かしい「板わかめ」を句に詠んでいないかと探してみた。手元の歳時記をはじめ、ネットもかけずり回ってみたが、川柳のページに「少しだけ髪が生えたか板ワカメ」(詠み人知らず)とあったのみ。笑える作品ではあるけれど、私の懐かしさにはつながらない。そこでもう一度歳時記をひっくり返してみているうちに、ひょっとすると「板わかめ」を題材にしたのかもしれないと思ったのが掲句である。食べるときのパリパリした感じが、実は「乾きゆく音」がこもったものと解釈すれば、「板わかめ」にぴったりだ。いや、これぞ「板わかめ」句だと、いまでは勝手に決め込んでいる。山陰地方のみなさま、如何でしょうか。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0252004

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

                           松尾芭蕉

語は「山吹」で春。『笈の小文』所収の句で、前書に「西河(にしこう)」とある。現在の奈良県吉野郡川上村西河、吉野川の上流地域だ。この「瀧(たき)」は吉野大滝と言われるが、華厳の滝のように真っ直ぐに水の落下する滝ではなくて、滝のように瀬音が激しいところからの命名らしい(私は訪れたことがないので、資料からの推測でしかないけれど)。青葉若葉につつまれた山路を行く作者は、耳をろうせんばかりの「瀧の音」のなか、岸辺で静かに散っている山吹を認めた。このときに「ほろほろと」という擬態語が、「ちるか」の詠嘆に照応して実によく効いている。「はらはらと」ではなく、山吹は確かに「ほろほろと」散るのである。散るというよりも、こぼれるという感じだ。吉野といえば山桜の名所で有名だが、別の場所(真蹟自画賛)で芭蕉は書いている。「きしの山吹とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重(ひとえ)に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをさをさを(お)とるまじきや」。現在でも川上村のホームページを見ると、山吹の里であることが知れる。「ほろほろと」に戻れば、この実感は、よほどゆったりとした時間が流れていないと感得できないだろう。その意味では、せかせかした現代社会のなかでは、もはや死語に近い言葉かもしれない。せめてこの大型連休中には、なんとか「ほろほろと」を実感したいものだが、考えてみると、この願望の発想自体に既にせかせかとした時間の観念が含まれている。(清水哲男)




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