国民年金時効延長。議員は勝手だねえ。必死に払ってきた側の気持ちを逆撫でとは。




2004ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052004

 若からぬ一卓ビールの泡ゆたか

                           中嶋秀子

く見かける情景だ。何かの会合の流れなどで、もはや「若からぬ」人たちがビールの卓を囲んで談笑している。大きなジョッキになみなみと注がれた「ビールの泡」が、その場のなごやかさを更に盛り上げている。このときに「ゆたか」とは、そうやって集い楽しむ人たちの、ささやかながらも充実した時空間の形容だろう。長い人生を生きてきた人々ならではの楽しみ方が、そこにある。若者の一団からは感じることのできない、ゆったりとした雰囲気は、傍から見ていても微笑ましいものだ。若い頃から私は感じてきたが、ビールが似合うのは若者よりも年配者のほうではないだろうか。ビールのコマーシャルなどでは若者が一気に飲み干すシーンが多いけれど、あんなに飢えたように飲むのでは、本当はそんなに美味くないと思う。喉の渇きを癒すのならば、むしろ水を一気に飲むほうが効果的だろう。それにあんなに急いで飲むと、後がつづくまい。ビールの味がわかるまい。半世紀近く飲みつづけてきた体験からすると、泡が完全に消えるまでの間にゆっくりと飲むのが、最良な方法のような気がする。だから生ビールであれば、できれば自分のペースに会わせた泡の量を指定できる店で飲むことだ。そんな店は多くはないが、銀座のライオンなどではちゃんと泡の量を注文できる。注ぎ手がよほど優秀でないと無理な注文になるけれど、あの店では決まって泡七割と指定する常連客がいるのだという。むろん「若からぬ」人である。支配人から聞いた話だ。他にもいろいろ聞かせてもらったが、美味く飲むためには、なるべく物を食べないことも条件の一つだった。そしてその点だけは、私は彼に誉められた。私の大いに自慢とするところだ。『約束の橋』(2001)所収。(清水哲男)


May 1952004

 田植うるは土にすがれるすがたせり

                           栗生純夫

に田植えが終わった地方もあるし、これからのところもある。先日の久留米の宿でローカルニュースを見ていたら、長崎地方の田圃で開かれた「泥んこバレー」の模様を写していた。水を入れた田圃で転んでは起きしてのバレーボールは愉快だが、単に遊びというだけでなく、こうやって田圃を足でかき回しておくと、田植えに絶好の土ができるのだそうだ。いずれにせよ、いまはほとんどが機械植えになっているので、農家の人々ですら、こんなことでもやらないと田圃の土に親しむことはなくなってしまった。手で植えたころの苦しさを思えば、田植え機の登場は本当に画期的かつ革命的な出来事だった。実際、手で植えるのは辛い。私の子供の頃は、この時期になると学校が農繁期休暇に入り、みな田圃にかり出された。イヤだったなあ。暗いうちから起きて、日が昇るころには田圃に入る。あの早朝の水の冷たさといったら、思い出すだに身震いがする。それから日没まで、休憩は昼食時とおやつの時間のみという条件の下で働くのだ。疲れても、適当に切り上げることはできない。というのも、集落のなかでは全戸の田植えの日取りが決まっており、お互いに相互扶助的に人手を出し合って植えていたからである。切り上げて明日にしようと思っても、明日は他家の田植えが待っているというわけだ。午後ともなると、子供のくせに老人のように腰を叩きながらの作業となる。そんな必死のノルマのほんの一角だけを担った体験者からしても、掲句はまことに美しく上手に詠まれてはいるが、作者の傍観性がやはり気になる。かつての土にすがって生きる「すがた」とは、このようなものではない。もっと戦闘的であり策略的であり、もっと雄々しくて、しかし同時に卑屈卑小の極みにもどっぷりと浸かった「すがた」なのであった。宇多喜代子『わたしの名句ノート』(2004)所載。(清水哲男)


May 1852004

 顔面の蚊を婦人公論で叩く

                           佐山哲郎

が出はじめた。油断して網戸を開けておくと、どこからともなく、部屋の中にプーンと入ってくる。この音を聞くと「もう夏なんだなあ」とは思うが、べつに特段の風情を感じるわけじゃない。作者は顔面にとまった蚊を、たまたま読んでいた「婦人公論」で叩いたのだ。雑誌を傍らに置いてから叩いたのでは逃げられてしまうので、緊急やむを得ず雑誌で打ったということだろう。寝転んで読んでいたのかもしれない。ただそれだけのことだが、なんとなく可笑しい。可笑しさを生んでいるのは、むろん「婦人公論」という固有の雑誌名をあげているからだ。単に雑誌で叩いたと言うのとは違って、変な生々しさがある。妙な抵抗感もある。事もあろうに、何もよりによって(ではないのだけれど)「婦人公論」で叩くことはないじゃないか。と、読者はふっと思ってしまう。というのも、この雑誌が持っている(どちらかというと)硬派のイメージが、蚊を叩くというような日常性べったりの行為にはそぐわないからなのだ。しかも、叩いたのは「顔面」だ。インテリ女性がいきなり男の顔を平手打ちにしたようなイメージも、ちらりと浮かぶ。だから、よけいに可笑しい。これが例えば「女性自身」や「週刊女性」だったら、どうだろうか。やはり可笑しいには違いないとしても、その可笑しさのレベルには微妙な差があるだろう。俳句は、名所旧跡神社仏閣あるいは地方名物などの固有名詞を詠み込むのがお得意である。掲句は商標としての固有名詞を使っているわけだが、その意味からすると俳句の王道を行っていることになる。そのことを思うと、またさざ波のように可笑しさが増してくるのは何故なのだろう。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)




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