あらら、図書館で借りた本の返済期限がとっくに切れている。ごめんなさい。




2004ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252004

 枇杷抱けば ピカソの女が泣くような

                           伊丹啓子

語は「枇杷(びわ)」で夏。「ピカソの(描いた)女」は、言うまでもなく抽象化されている。したがって、この句もまた抽象化された表現として読む必要があるだろう。小さな枇杷の実をたとえ複数個であろうとも、「抱けば」とするのは具象表現としては妙なのだが、抽象化したそれと読めば違和感はない。私は、たった一個の枇杷だと見る。そのほうが、抽象度が高まるからだ。一個の枇杷を抱く気持ちで両掌で包んだときに、いきなりピカソの女が泣くような構図になったと言うのである。抽象は物象を形骸化することではなく、その本質を掴み浮き上がらせることだ。このときに鼻や目の位置がおかしいとか、身体各部の釣り合いがとれていないといった日常的常識的な目は無効となる。ピカソの女は、宇宙的自然的な時空間とのバランスがとれていれば、それでよいのだからである。一切の虚飾や虚妄を排された一個の生命の姿が、そこにある。だから「泣く」にしても、忍び泣きなどではなくて、心底から込み上げてくる感情の吐露でなければならない。掲句は、両掌にそっと枇杷を包んで湧いてきたいとおしいような感情がぐんと高まってきて、その純粋な気持ちが、ピカソの女のそれと無理なく自然に通じ合ったのだ。いまならば、ともに泣けるだろう。そのような一種の至福の心境が、良質な抒情性を伴って述べられている。作者のこの孤独のありようは、枇杷の色さながらに、むしろ明るい。なお、俳句の文字間空け表記に私は必ずしも賛成ではないのだが、この句の場合には好感が持てた。『ドッグウッド』(2004)所収。(清水哲男)


May 2152004

 子供地をしかと指しをり蚯蚓這ひ

                           高浜虚子

語は「蚯蚓(みみず)」で夏。「子供」とあるが、まだ物心がついたかつかないかくらいの幼児だろう。値を這う蚯蚓を見つけて、真剣な表情で指差している。不思議そうにしたり、気持ち悪がったりしているのではない。かといって、発見を誰かに告げようとしているのでもない。ただひたすらに「しかと」、地に動く物を指差している。強いて言えば、自分の発見を自分で「しかと」確認しているのだ。幼児はしばしばこういう所作をして、大人を微笑させたり苦笑させる。何を真剣に見つめているのかと思えば、大人の分別ではとるに足らぬものだったりする。幼児には、池の鯉も地の蚯蚓やトカゲも等価なのだから。そこがまた、なんとも可愛らしく思えるところだ。こういう句は、想像では詠めない。しかし、実際に目撃したとしても、なかなか詠めるものではないだろう。そこはさすがに虚子だけのことはあり、幼児の幼児たる所以の根っ子のところを見事に写生してみせている。しかもこの写生は、絵画的なスケッチやスナップ写真などでは写せないところまでを写し込んでいて、舌を巻く。絵画や写真では、どうやっても「しかと」の感じが出せそうもないからだ。幼児なりの「しかと」の気合いは、外面的な様子には現れにくい。その場にいて、ようやくわかる態のものである。それを虚子は、それこそしっかりと「しかと」の措辞に託した。いや、なんとも上手いものである。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 2052004

 若からぬ一卓ビールの泡ゆたか

                           中嶋秀子

く見かける情景だ。何かの会合の流れなどで、もはや「若からぬ」人たちがビールの卓を囲んで談笑している。大きなジョッキになみなみと注がれた「ビールの泡」が、その場のなごやかさを更に盛り上げている。このときに「ゆたか」とは、そうやって集い楽しむ人たちの、ささやかながらも充実した時空間の形容だろう。長い人生を生きてきた人々ならではの楽しみ方が、そこにある。若者の一団からは感じることのできない、ゆったりとした雰囲気は、傍から見ていても微笑ましいものだ。若い頃から私は感じてきたが、ビールが似合うのは若者よりも年配者のほうではないだろうか。ビールのコマーシャルなどでは若者が一気に飲み干すシーンが多いけれど、あんなに飢えたように飲むのでは、本当はそんなに美味くないと思う。喉の渇きを癒すのならば、むしろ水を一気に飲むほうが効果的だろう。それにあんなに急いで飲むと、後がつづくまい。ビールの味がわかるまい。半世紀近く飲みつづけてきた体験からすると、泡が完全に消えるまでの間にゆっくりと飲むのが、最良な方法のような気がする。だから生ビールであれば、できれば自分のペースに会わせた泡の量を指定できる店で飲むことだ。そんな店は多くはないが、銀座のライオンなどではちゃんと泡の量を注文できる。注ぎ手がよほど優秀でないと無理な注文になるけれど、あの店では決まって泡七割と指定する常連客がいるのだという。むろん「若からぬ」人である。支配人から聞いた話だ。他にもいろいろ聞かせてもらったが、美味く飲むためには、なるべく物を食べないことも条件の一つだった。そしてその点だけは、私は彼に誉められた。私の大いに自慢とするところだ。『約束の橋』(2001)所収。(清水哲男)




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