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2004ソスN5ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2452004

 手渡しの重さうれしき鰻めし

                           鷹羽狩行

語は「鰻(うなぎ)」で夏。掲句のように、作者は身構えない句の名手だ。何の変哲もない日常の断片を捉えて、見事にぴしゃりと仕立て上げる。天性のセンスの良さがなせる業としか言いようがなく、真似しようとして真似できるものではないだろう。その意味では、虚子以来の名人上手と言うべきか。前書に「茨城・奥久慈」とあるが、ここが鰻の産地であるかどうかは知らない。いや、むしろ産地ではないからこそ、思いがけなく出てきた「鰻めし」と解したほうが面白そうだ。旅の幹事役が一人ひとりに手渡しているのは、駅弁かどこかの店の折詰である。包装紙から中身が鰻めしであるとはすぐに知れたが、いささか小ぶりに感じられた。だが、実際に手渡されてみると、意外にもずっしりとした手応え。思わずも「うれし」くなってしまったというそれだけの句であるが、実に巧みに人情のツボを押さえている。いわば人の欲のありようを、さりげなくも鋭く描き出している。同じものならば少しでも重いほうが、あるいは大きいほうが得をしたような気になるものだ。べつに作者はがつがつしているわけではないけれど、こうした他愛ない欲の発露にうれしくなる自分(ひいては人間というもの)に小さく驚き、むしろ新鮮味すら覚えているのだと思う。誰にでも覚えのあることながら、このような些事を句にしようとする人は皆無に近い。句作において、この差は大きい。作者の天性を云々したくなる所以である。『十四事』(2004)所収。(清水哲男)


May 2352004

 玻璃皿の耀りに輪切りのパイナップル

                           住吉一枝

語は「パイナップル」で夏。困ったことに、「耀り」の読み方がわからない。「耀」は訓読みでは「かがやき」としか読まないはずだが、「耀り」とは、はてな。仕方がないから、いちおう我流で「ひかり」と読んでおくことにする。何とも頼りない話で申し訳ないのだけれど、読めなくても句意はよくわかる。しかも、この読めない「耀り」という漢字が、掲句にはふさわしいものであることも……。私などの世代には、長い間、パイナップルやバナナは憧れの果実であった。高価でもあったが、品薄でもあったので、なかなか口に入ることがなかった。たまさか幸運にも食べる機会があると、胸がわくわくしたものである。いまでこそ果実店には生のパイナップルが置かれているが、子供の頃に胸ときめかせたのは生のものではなくて、缶詰のものだった。俗に「パイ缶」と言う。生のパイナップルなどは、写真か絵でしか見たことがないという時代。かの特攻隊の出撃前の最後の食事には赤飯と缶詰のパイナップルが出たというレポートもあるくらいで、とにかく貴重に超の字がつくほどの果実だったのだ。句のパイナップルは「輪切り」とあるから、むろん缶詰のそれである。憧れの果実が特別な「玻璃(ガラス製)皿」に盛られた様子に、目を輝かせて喜んでいる作者の気持ちが痛いほど伝わってくる。まさに「耀」たりではないか。そして気がつけば、私たちの周辺には憧れるほどの食べ物は無くなっている。それだけ世の中が豊かになった証明ではあるが、なんだか淋しい時代になってきたような気もする。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[ 早速 読者の方より ]「耀り」は「てり」と読むとのご教示がありました。当て読みなのでしょうが、なるほどと納得です。ありがとうございました。


May 2252004

 枇杷抱けば ピカソの女が泣くような

                           伊丹啓子

語は「枇杷(びわ)」で夏。「ピカソの(描いた)女」は、言うまでもなく抽象化されている。したがって、この句もまた抽象化された表現として読む必要があるだろう。小さな枇杷の実をたとえ複数個であろうとも、「抱けば」とするのは具象表現としては妙なのだが、抽象化したそれと読めば違和感はない。私は、たった一個の枇杷だと見る。そのほうが、抽象度が高まるからだ。一個の枇杷を抱く気持ちで両掌で包んだときに、いきなりピカソの女が泣くような構図になったと言うのである。抽象は物象を形骸化することではなく、その本質を掴み浮き上がらせることだ。このときに鼻や目の位置がおかしいとか、身体各部の釣り合いがとれていないといった日常的常識的な目は無効となる。ピカソの女は、宇宙的自然的な時空間とのバランスがとれていれば、それでよいのだからである。一切の虚飾や虚妄を排された一個の生命の姿が、そこにある。だから「泣く」にしても、忍び泣きなどではなくて、心底から込み上げてくる感情の吐露でなければならない。掲句は、両掌にそっと枇杷を包んで湧いてきたいとおしいような感情がぐんと高まってきて、その純粋な気持ちが、ピカソの女のそれと無理なく自然に通じ合ったのだ。いまならば、ともに泣けるだろう。そのような一種の至福の心境が、良質な抒情性を伴って述べられている。作者のこの孤独のありようは、枇杷の色さながらに、むしろ明るい。なお、俳句の文字間空け表記に私は必ずしも賛成ではないのだが、この句の場合には好感が持てた。『ドッグウッド』(2004)所収。(清水哲男)




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