『喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな』。こんな本出す奴とはつきあうな。




2004ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752004

 五月雨や御豆の小家の寝覚がち

                           与謝蕪村

語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。(清水哲男)


May 2652004

 青田風チェンジのときも賑やかに

                           中田尚子

語は「青田(風)」で夏。一面の青田を渡ってくる風が心地よい。そんな運動場で行われている少年野球だ。両チームともに元気で、試合中にもよく声が出ているが、攻守交代時にもすこぶる賑やかである。周囲で応援している親や大人の緊張ぶりに比べて、少年たちのほうは伸び伸びと屈託がない。私が子供だったころの小学校の校庭を思い出す。清々しい句だ。ただ思い出してみると、少年たちが賑やかなのは、必ずしもリラックスしているときだけではなかった。緊張感が増してくると、逆にそれを和らげようとして、妙に饒舌になったりはしゃいでみたりする奴も出てくるのだ。接戦ともなれば、異常に騒々しく賑やかになったりする。ふだんは無口な奴が、奇声を発したりもする。やはり勝負事は、なかなかクールでいるわけにはいかないようだ。そしてたしかに、大声を出してみると、緊張感は多少とも薄らぐのである。いま住んでいる家の近くに立派なグラウンドがあって、ときたま少年野球の公式戦に出くわすことがある。先日見物していたら、チェンジでベンチに帰ってくる小学生たちに、しきりに檄を飛ばしている大人のコーチがいた。円陣を組ませては、何やら叫ばせている。遠くからでは何を言っているのかわからないので、ベンチ裏まで近づくと、コーチの指示がはっきり聞こえてきた。「いいか、これは英語だからお前らにはわからんだろうが、大事な言葉だぞ。さあ、元気な声でいってみよう。『ネバー・ネバー・サレンダーッ !』」。つづいて子供たちが唱和していたが、いまひとつ元気な声が出てこない。やっぱり意味不明の言語では、気合いが入らないのだろう。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


May 2552004

 甚平や概算という暮し方

                           小宅容義

語は「甚平(じんべい)」で夏。薄地で作った袖無しの単衣。仕事着やふだん着に使う。私は持っていないが、素肌に着ると涼しそうだ。掲句について、作者は「年を取った一人暮しは全く自堕落という外はない。命までもだ」と言っている。自嘲であるが、ざっくりと甚平を着ていると「自堕落」ぶりが助長されるような気持ちになるのだろうか。たしかに、身体の一部を多少とも締めていないと気持ちのゆるみは出てくるだろうが……。「概算」は、今風に言えば「アバウト」の意だろう。大雑把というよりも、いい加減というニュアンスに近い。何事につけ、投げやりになる。いい加減に放っておきたくなる。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、面倒だから適当に放置しておく。そしてこの姿勢が高じてくると自虐的になり、自嘲の一つも出てくるようになる。アバウトな「暮し方」に、私は若いころには憧れた。呑気でいいなあと、無邪気に思っていたからである。ところがだんだん年を取ってくると、他人の目にはどう写るかは知らないが、物事をアバウトに処することはかなり苦しいことだとわかってきた。心身が衰えてきたせいで、諸事に面倒を感じるようになり、つい手を抜く。抜きたくなる。豪儀な手抜きではないのだ。じりっじりっと、社会との接点や付き合いのレベルを下げていかざるを得ない。この自覚は、苦しいのだ。楽ではない。作者の自嘲も、おそらくはそのふたりに根があるのではないのかと、他人事とは思えない。実は甚平は前から欲しかったのだけれど、ずいぶんとヤバそうだ。止めとこう。「俳句」(2004年6月号)所載。(清水哲男)




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