May 312004
濡れるだけ濡れて帰る子てまりばな
坂石佳音
季語は「てまりばな(繍毬花・手毬花)」で夏。別名、おおでまり。我が家の近辺では「こでまり」はよく見かけるが、「おおでまり」は見たことがない。何度か行った陸奥では、逆に「おおでまり」が多かった。葉も花の形も、ちょっと紫陽花に似ている。そういうこともあってか、雨に似合う花だ。そんな白い花が咲いている道を、子供が「濡れるだけ濡れて」帰っていく。駆けているのでもなく、とくに急ぎ足というのでもない。覚悟を決めたと言わんばかりに、普通の速度で歩いている。家が遠いのだろう。作者は擦れ違ったのか、それとも縁先辺りから見ているのだろうか。いずれにしても、ずぶぬれの子を可哀想だと思うよりも、むしろ一種の小気味よさを感じているのだ。白秋の童謡では雨に降られた子を「ヤナギノネカタ」で泣かせたりしているが、そうしたセンチメンタルな印象を微塵も与えない子供の姿に、大いに感じ入っている。最近では見かけない光景だが、昔の田舎道ではしばしば見かけた。いや、見かけたどころか、自分が「濡れるだけ濡れ」たことは何度もある。もうジタバタしてもはじまらないと、ずぶぬれで歩いている気持ちは、あれでけっこう爽やかなものだ。慌てず騒がず、いささかヒロイックな気分すらしてきた。濡れた服や靴の後始末を考えなくてもよいという特権もあったけれど、少しく日常性を逸脱した行為が嬉しかったのだと思う。子供は掟破りが好きなのだ。かつて子供だった作者は、見かけだけではなく、そうした子供心にも思いを巡らせているのではあるまいか。(清水哲男)
December 202008
駅の鏡明るし冬の旅うつす
桂 信子
その鏡にうつっているのは、一面の雪景色なのだろうか。いずれにしてもよく晴れている。そんな風景を背にして、着ぶくれて、頬がちょっと赤くて、白い息を吐きながらも、どこかわくわくしている旅人の顔。非日常の風景の中の自分を、現実の自分が見つめている。冬の旅という言葉を、ありきたりな旅情と結びつけるのではなく、冬の旅うつす、としたことがひとつの発見。出典から見て、昭和三十年より前に作られた句である。こんなさりげない句にも、この作者の自由な詩心が感じられる。さほど大きくはないこの駅で降り立った作者は、ずっと握りしめていた旅の証である切符を駅員に渡して、見知らぬ街へ歩き出したことだろう。なんだか懐かしい、小さくて少し硬めの切符だ。〈それぞれの切符の数字冬銀河〉(坂石佳音)切符に刻まれた数字の数だけ旅人がいて、それぞれの夜空を仰ぐ。『図説俳句大歳時記 冬』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)
January 162012
ひとつふたつ持ち寄る憂ひ毛糸編む
坂石佳音
近所の親しい人たちが、何人かで毛糸を編んでいる。昔はよく見かけた光景だ。みんなの手が動いているのは当然だが、口も動いている。あたりさわりのない四方山話などに興じているうちに、そのうちの誰かが個人的な愚痴を語りはじめたりする。それが引きがねとなって、「そう言えば……」などと別の誰かもあまり愉快ではない話を切り出したりする。傍から見れば長閑にしか見えない編み物の光景だが、そんな座にいる人たちにも、当たり前のことながら悩みもあれば「憂ひ」もあるのだ。その「憂ひ」をそれぞれが持参してきた毛糸玉に掛けて、「持ち寄る」と表現したところが秀逸である。毛糸玉の色彩にはいろいろあるように、むろん各人の「憂ひ」もさまざまである。表現技巧は洒落ているけれど、中身は決して軽くない。アタマだけでは作れない句だ。『続続 へちまのま』(糸瓜俳句会15周年記念誌・2011)所載。(清水哲男)
September 262014
雁や農夫短き畝立てて
坂石佳音
北方で繁殖した雁(かりがね)は十月の声を聞く頃渡来する。この飛び方は少し離れた先頭の一羽に従い竿になり鍵状になりつつ直線に飛んで行く。わが縦長の列島の空を渡る頃農事は秋から冬の備えに入る。冬の農地は自給自足の分の収穫で足りる。農夫はその分の短い畝を立ててゆく。地道な生活が暦にそって一つ一つと営まれて行く。その頭上大空をやはり例年の如くに竿になり鍵になって雁が渡って来る。雁は目的地に到着し翌春帰るまでは主として湖沼に群棲している。大らかな自然の下で暮らしは小さく地道にねと農夫は教わっている。『続続へちまのま』(2011)所載。(藤嶋 務)
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