イラクの自衛隊は何をやってるんだろう。さっぱり伝わってこない。蟄居状態か。




2004ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262004

 脉のあがる手を合してよ無常鳥

                           井原西鶴

語は「無常鳥(ホトトギス・時鳥)」で夏。作者は三十四歳のとき(延宝3年・1675)に、二十五歳の妻と死に別れた。そのときに、一日で独吟千句を巻いて手向けたなかの一句だ。西鶴の句を読むには、いささかの知識や教養を要するので厄介だが、句の「無常鳥」も冥土とこの世とを行き来する鳥という『十王経』からの言い伝えを受けている。妻が病没したのは、折しもホトトギス鳴く初夏の候であった。あの世に飛んでいけるホトトギスよ、妻はこうして脉(みゃく)のあがる(切れる)手を懸命に合わせています。どうか、極楽浄土までの道のりが平穏でありますように見守ってやってください、よろしくお頼み申し上げます。と、悲嘆万感の思いがこもっている。速吟の一句とは思えない、しっとりとした情感の漂う哀悼句だ。この後すぐに西鶴は剃髪して僧形となったが、仏門に入ったのではなく、隠居したことを世間に周知せしめるためだったという。二人の間の三人の子供のうち二人は早死にし、残った娘ひとりは盲目であった。単行本になったら読もうと思っていて、実はまだ読んでいないのだが、いま富岡多恵子が文芸誌「群像」に西鶴のことを断続的に書き継いでいる。同時代人の芭蕉に比べると、西鶴については書く人が少ないのは残念である。もっともっと、現代人にも知られてよい人物とその仕事ではなかろうか。(清水哲男)


June 0162004

 六月を奇麗な風の吹くことよ

                           正岡子規

書に「須磨」とある。したがって、句は明治二十八年七月下旬に、子規が須磨保養院で静養していたときのものだろう。つまり、新暦の「六月」ではない。旧暦から新暦に改暦されたのは、明治六年のことだ。詠まれた時点では二十年少々を経ているわけだが、人々にはまだ旧暦の感覚が根強く残っていたと思われる。戦後間もなくですら、私の田舎では旧暦の行事がいろいろと残っていたほどである。国が暦を換えたからといって、そう簡単に人々にしみついた感覚は変わるわけがない。「六月」と聞けば、大人たちには自然に「水無月」のことと受け取れたに違いない。ましてや、子規は慶応の生まれだ。須磨は海辺の土地だから、水無月ともなればさぞや暑かったろう。しかし、朝方だろうか。そんな土地にも、涼しい風の吹くときもある。それを「奇麗(きれい)な風」と言い止めたところに、斬新な響きがある。いかにも心地よげで、子規の体調の良さも感じられる。「綺麗」とは大ざっぱな言葉ではあるけれど、細やかな形容の言葉を使うよりも、吹く風の様子を大きく捉えることになって、かえってそれこそ心地が良い。蛇足ながら、この「綺麗」は江戸弁ないしは東京弁ではないかと、私は思ってきた。いまの若い人は別だが、関西辺りではあまり使われていなかったような気がする。関西では、口語として「美しい」を使うほうが普通ではなかったろうか。だとすれば、掲句の「綺麗」は都会的な感覚を生かした用法であり、同時代人にはちょっと格好のいい措辞と写っていたのかもしれない。高浜虚子選『子規句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


May 3152004

 濡れるだけ濡れて帰る子てまりばな

                           坂石佳音

語は「てまりばな(繍毬花・手毬花)」で夏。別名、おおでまり。我が家の近辺では「こでまり」はよく見かけるが、「おおでまり」は見たことがない。何度か行った陸奥では、逆に「おおでまり」が多かった。葉も花の形も、ちょっと紫陽花に似ている。そういうこともあってか、雨に似合う花だ。そんな白い花が咲いている道を、子供が「濡れるだけ濡れて」帰っていく。駆けているのでもなく、とくに急ぎ足というのでもない。覚悟を決めたと言わんばかりに、普通の速度で歩いている。家が遠いのだろう。作者は擦れ違ったのか、それとも縁先辺りから見ているのだろうか。いずれにしても、ずぶぬれの子を可哀想だと思うよりも、むしろ一種の小気味よさを感じているのだ。白秋の童謡では雨に降られた子を「ヤナギノネカタ」で泣かせたりしているが、そうしたセンチメンタルな印象を微塵も与えない子供の姿に、大いに感じ入っている。最近では見かけない光景だが、昔の田舎道ではしばしば見かけた。いや、見かけたどころか、自分が「濡れるだけ濡れ」たことは何度もある。もうジタバタしてもはじまらないと、ずぶぬれで歩いている気持ちは、あれでけっこう爽やかなものだ。慌てず騒がず、いささかヒロイックな気分すらしてきた。濡れた服や靴の後始末を考えなくてもよいという特権もあったけれど、少しく日常性を逸脱した行為が嬉しかったのだと思う。子供は掟破りが好きなのだ。かつて子供だった作者は、見かけだけではなく、そうした子供心にも思いを巡らせているのではあるまいか。(清水哲男)




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