自分の発言に自分で「はい」と応える選手が増えた。何のつもりかね、気になる。




2004ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762004

 薔薇園に外来講師農学部

                           清水貴久彦

語は「薔薇」で夏。文字面を見ているだけで、気持ちが明るくなる。薔薇園は、農学部の実習のためにあるのだろう。他の学部であれば教室に迎えるところを、そこは農学部だから、実習園に迎えたわけだ。即「作品」を見てもらうということで、学生たちも緊張しているが、即「評価」を求められる格好になった講師の側も緊張している。他流試合と言えば大袈裟かもしれないが、学生と外来講師との関係にはそのようなところがある。とかく単調になりがちな日々の授業だけに、たまさかのこの緊張感は心地よい。句にそんなことは書いてないけれども、実習園の雰囲気はそういうことであり、通りがかりに見かけて微笑している作者の心持ちはよく理解できる。いつもとは違う光りを帯びた薔薇園が、清々しくそこにあった。なお、作者は岐阜大学医学部教授。外来講師で思い出したが、私の学生時代に、木庭一郎明大教授を迎えたことがある。筆名は中村光夫。著名な文芸評論家として知っていたし、ミーハー心も手伝って、緊張しつつもわくわくしながら授業に出た。が、結果は失礼ながら失望落胆。失望は、いきなり木庭先生が出欠をとりはじめたこと。当時出欠をとる先生は稀だったから、子供扱いを受けたようで不愉快だった。落胆は、講義のテーマが二葉亭四迷はよいとして、先生の講義というのが同名の自著をただ棒読みにするだけだったこと。運の悪いことに、私は既にその本を読んでしまっていた。毎回出欠をとられながら、既知の中身を棒読みされたのではたまらない。さすがに二、三回で、閉口して止めてしまった。考えようによっては、ずいぶんと呑気で良き時代だったとも言えるのだけれど。『微苦笑』(2000)所収。(清水哲男)


June 0662004

 水郷の水の暗さも梅雨に入る

                           井沢正江

語は「梅雨に入る(入梅)」で夏。「水郷」は、大河川の中・下流の低湿な三角州地域で、水路網が発達し、舟による交通が発達している地域。利根川、信濃川、木曽川、筑後川などの中・下流地方、作者はたしか関東の人だから、潮来あたりの光景だろうか。晴れていれば水面に光が反射して明るい地方だけに、今日は水も暗く、よけいに周辺も暗く感じられると言うのだ。いかにも入梅らしい雰囲気を大きく捉えていて、見事である。ただし、句の情景に雨は降っていない。「えっ、入梅なのに」と訝しく思うむきもあろうが、降っているのならば、わざわざ水の暗さを持ち出すこともないだろう。いまにも雨が来そうだ、という趣きなのである。俳句で「入梅」というときには、多く暦の上でのそれを指すので、実際の降雨とは関係がない。立春から数えて百三十五日目の日のことであり、八十八日目を八十八夜と言うのと同じ数え方だ。ちなみに、今年の暦の上での「入梅」は六月十日にあたっている。なぜ実際に梅雨に入るかどうかもわからないのに暦に設定したのかと言えば、農事上の必要からであった。むろん天気予報などはなかった時代だから、長い雨期に入るのがいつごろからなのか、おおよさの目安を知って、農作業を進める必要があったからである。長雨による水害への備えも、大事な仕事だった。現代では「入梅」イコール「気象的な入梅」とする句も多いが、古い句を読むときには、とくにこの点には注意しなければならない。『合本・俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


June 0562004

 昼顔につき合ひ人を待つでなく

                           林 朋子

語は「昼顔」で夏。野山や路傍、どこにでも咲いている。薄紅の花の色は可憐だが、あまりにも咲きすぎるせいか、珍重はされないようだ。句は、わざわざそんな「昼顔」につき合って、誰を待つでもなく道端に佇んでいる。といっても実際に路傍に立っているのではなくて、夏の午後のけだるい時間をシンボリックに詠んだのだろう。なるほど、けだるさには昼顔がよく似合う。この句を読んで、ちょっと思うことがあった。実景ではないと読んだけれど、仮に実景だとすれば、作者以外にはどんな光景に写るだろうかということだ。想像するだけで、なんとなく奇異な様子に見えるのではないだろうか。まさか昼顔につき合っているとは知らないから、道端に人がひとり何をするでもなく長い時間立っていれば、ついつい変に思ってしまうのが人情だからである。最近よく散歩をするようになって気がついたのは、いかにこの人情なるものが散歩者の気分を害するかということだった。天下の往来である。走ろうが立ち止まろうが当人の勝手のはずが、そうじゃない。歩き疲れてしばし佇んでいるだけで、必ずどこからか猜疑という人情のまなざしが飛んでくる。立ち話をしている主婦たちの目が、ちらちらとこちらを伺っていたりする。そんなときには仕方がないから、しきりに腕時計を見るふりをすると、多少は猜疑の目も和らぐようだ。携帯電話は持っていないが、こんなときにはさぞかし便利だろう。ともかく、人通りのない山道ででもないかぎり、人は道で一分と動かずに立っていることはできない。堂々と立ち止まれるのは、ゆいいつ信号のある交差点だけである。嘘だと思ったら、どうかお試しあれ。『眩草』(2002)所収。(清水哲男)




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