マンションの庭木の手入れ。電動カッターでやっている。うるさくてかなわない。




2004ソスN6ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0962004

 汗ばむや桜の頃のいい話

                           清水径子

語は「汗ばむ」で夏。「桜」は「桜の頃」と、もはや過ぎ去った季節だから、この場合は季語ではない。試験に出すと、うっかりして間違える生徒がいそうだ。そしてこの「桜の季節」は、遠い過去のそれだろう。ということを、「いい話」が暗示している。「いい話」とは、むろん儲け話や美談の類いではない。自分に関わる、ちょっと秘密にしておきたい出来事のことである。出来事があった当時は「いい事」だったのだけれど、それが年月を経るにつれて「話」に変わってきたというわけだ。桜の頃の話だから、きっと浮き浮きするような出来事だったに違いない。若き日の恋の淡い思い出だろうか。ふっとその「いい話」を思い出して、青春のあの日あの時に戻ったように、自然に気持ちも身体も汗ばんできた。また掲句は、「でも、この話のことはナイショですからね」とも言っていて、いかにも女性らしい感性をのぞかせている。男には、逆立ちしても詠めっこない句だ。粗略かもしれないが、私の観察では、女性はいつまでもロマンチストであると同時にリアリストであることができる。男の場合には、たいていが猛烈なロマンチストとして出発はするが、いつの頃からかミもフタもないリアリストに転じてしまうようだ。夢と現実を共存させることができないのである。だから男には、たまに「いい事」があったとしても、ほとんどが「いい話」としては残らない理屈だ。『夢殻』(1994)所収。(清水哲男)


June 0862004

 恍惚と蟻に食はれて家斃る

                           冨田拓也

語は「蟻」で夏。常識的にはシロアリだろうが、イメージ主体の句だから、むしろ普通の蟻と読んだほうが面白いかもしれない。食われて斃(たお)れたのは、家だ。だが、斃れたのは実は人間でもある。「恍惚として」の修辞が、そのことを告げている。暗いユーモア、ないしは自虐の悦楽とでも言えばよいのか。斃れることがわかってはいても、進行していく愉楽の誘惑を断ちきれない。そういうところが、私たち人間には、確かにあるのだ。傍からすればみじめな結果と見えようが、当人にはいわば豪奢な滅びの喜びと思える一瞬が……。そうした黒い感受性の上に想像を広げるのは自由詩の得意とするところで、俳句ではなかなかに難しい。俳句が短いこともあるけれど、もう一つ、俳句は元来が座の文芸だからである。たとえひとりで家に籠って詠むとしても、根本的に座と切れるわけにはいかないのだ。このときに、座は体面を重んじる。体面と言っても、いわゆる世間体とはちょっと違う。世間体も含むが、座を形成している社会的なコンセンサスを崩さないところに、体面尊重の必要が生じてくるということだ。したがって、ひとり恍惚としていては体面から外れてしまう。つまり、座を崩すことになる。その意味で、掲句は俳句としてきわめて危うい場所に立っていると読めた。表面的には体面を保っているのだが、真意は単なる家の倒壊を越えた、更に先の地点に置かれているとしか考えられないからだ。その地点は、明らかに体面などどうでもよろしい場所だからである。作者は二十四歳。第一回芝不器男新人賞受賞句集『青空を欺くために雨は降る』(2004)所収。(清水哲男)


June 0762004

 薔薇園に外来講師農学部

                           清水貴久彦

語は「薔薇」で夏。文字面を見ているだけで、気持ちが明るくなる。薔薇園は、農学部の実習のためにあるのだろう。他の学部であれば教室に迎えるところを、そこは農学部だから、実習園に迎えたわけだ。即「作品」を見てもらうということで、学生たちも緊張しているが、即「評価」を求められる格好になった講師の側も緊張している。他流試合と言えば大袈裟かもしれないが、学生と外来講師との関係にはそのようなところがある。とかく単調になりがちな日々の授業だけに、たまさかのこの緊張感は心地よい。句にそんなことは書いてないけれども、実習園の雰囲気はそういうことであり、通りがかりに見かけて微笑している作者の心持ちはよく理解できる。いつもとは違う光りを帯びた薔薇園が、清々しくそこにあった。なお、作者は岐阜大学医学部教授。外来講師で思い出したが、私の学生時代に、木庭一郎明大教授を迎えたことがある。筆名は中村光夫。著名な文芸評論家として知っていたし、ミーハー心も手伝って、緊張しつつもわくわくしながら授業に出た。が、結果は失礼ながら失望落胆。失望は、いきなり木庭先生が出欠をとりはじめたこと。当時出欠をとる先生は稀だったから、子供扱いを受けたようで不愉快だった。落胆は、講義のテーマが二葉亭四迷はよいとして、先生の講義というのが同名の自著をただ棒読みにするだけだったこと。運の悪いことに、私は既にその本を読んでしまっていた。毎回出欠をとられながら、既知の中身を棒読みされたのではたまらない。さすがに二、三回で、閉口して止めてしまった。考えようによっては、ずいぶんと呑気で良き時代だったとも言えるのだけれど。『微苦笑』(2000)所収。(清水哲男)




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