紫陽花に憑かれた男のことを書いた小説があった。題名が思い出せない。歯がゆい。




2004ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262004

 鶏小屋の近くに吊す水着かな

                           藺草慶子

し早いが、海辺の民宿の図を。夕暮れ時だ。泳ぎ終えて民宿に引き揚げ、洗った水着を干している。いや、きちんと干すのではなく、ただ「吊す」だけのことだ。そして、そこは「鶏小屋」の近くだった。景としてはこれで全てだが、言外にある心理状態はそんなに単純ではない。図式化すれば、水着が非日常的な生活の側面を表しているのに対して、鶏小屋は反対に生活の日常的な部分を示している。つまり作者は何の気なしに非日常を日常の場所に持ち込んでしまったわけで、こういうときに人の心は微妙に揺れるのである。民宿を営んでいるその家の、夏場以外の日常のありようをふっとかいま見てしまったような、あるいは見てはいけないものを見てしまったような……。この鶏小屋は、客に新鮮な卵を提供するためにあるのではなく、家族の食卓のためにあるのだ。鶏小屋独特のむっとするような臭いの傍で、こういうところに遊びに来ている自分が、ちらりと申し訳ないような気持ちになったかもしれない。そっちは商売なんだし、こっちは客なんだから。リゾートホテルならそうも言えるが、民宿ではこの理屈は通しにくいのである。鶏小屋の存在を知ってしまった以上、宿の人との会話にも影響が出てくる。私も何度も民宿の厄介になったことがあるけれど、鶏小屋に当たったことはないにせよ、その家の思わぬ日常性に出会わなかったことはない。とくに小さな子供がいたりすると、日常性の露出度は高くなるから、苦手であった。掲句は、そんな民宿のありようをシンプルな取り合わせで捉えていて、その巧みさに膝を打ちたい思いで読んだ。『遠き木』(2003)所収。(清水哲男)


June 1162004

 一生の楽しきころのソーダ水

                           富安風生

語は「ソーダ水」で夏。大正の頃から使われるようになった季語という。ラムネやサイダーとは違って、どういうわけか男はあまりソーダ水を飲まない。甘みが濃いことも一因だろうが、それよりも見かけが少女趣味的だからだろうか。いい年をした男が、ひとりでソーダ水を飲んでいる図はサマになるとは言いがたい。だからちょくちょく飲んだとすれば、句にあるように「一生の楽しきころ」のことだろう。まだ小さかった子供のころともとれるが、この場合は青春期と解しておきたい。女性とつきあってのソーダ水ならば、微笑ましい図となる。喫茶店でソーダ水を前にした若い男女の姿を目撃して、作者はあのころがいちばん楽しかったなあと若き日を懐古しているのだ。むろん、味などは覚えてはいない。ただそのころの甘酸っぱい思いがふっとよみがえり、やがてその淡い思いはほろ苦さに変わっていく。年をとるとは、そういうことでもある。ある程度の年齢に達した人ならば、この句に触れて、では自分の楽しかった時代はいつ頃のことだったかと想起しようとするだろう。私もあれこれ考えてみて、無粋な話だが、青春期よりも子供の頃という結論に達した。ソーダ水の存在すら知らなかった頃。赤貧洗うがごとしの暮らしだったけれど、力いっぱい全身で生きていたような感じがするからだ。その後の人生は、あの頃の付録みたいな気さえしてくる。強いて当時の思い出の飲み物をあげるとすれば、砂糖水くらいかなあ。「砂糖水まぜればけぶる月日かな」(岡本眸)。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1062004

 幾たりか我を過ぎゆき亦も夏

                           矢島渚男

分と一緒に並んで歩いていたか、あるいは少し後ろから来ていたか。気がつくと、そのうちの「幾たりか」は「我を過ぎゆく」ようにして、遠いところへ行ってしまっていた。同世代や年下の友人知己に死なれるのは、ことのほか辛い。年齢を重ねていくほどに、無情にもそういうことが起きてくる。万物の生命の炎が燃え盛る夏。作者は火が消えるように過ぎて行った人たちのことを思い出して、半ば茫然としつつ「亦(また)も夏」とつぶやいている。ここにあるのは、激情的な悲嘆でもなければ詠嘆でもない。いわば静謐な悲しみが、真っ赤な太陽の下を透明な水のように流れ過ぎてゆく。私にも、そうした「幾たりか」がある。そのうちの一人のことをふと思い出すことがあると、脈絡もなく他の何人かのことも思い出されてくる。知り合った場所も年代も違うのに、彼ら「幾たりか」は不思議なことにいつも共通の背景の前にいるかのようだ。そんなことはないのに、彼らがみな互いに友人であったかのようにも思えてくる。故人を思い出すとは、夢を見ることに似ているのだろうか。「半ば茫然」と作者の気持ちを解したのは、そういう気持ちからだ。そして、「亦も夏」。ここに他のどんな季節を置くよりも、生き残った者の悲しみが真っすぐに読者に近づいてくる。俳誌「梟」(第157号・2004年6月刊)所載。(清水哲男)




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