June 162004
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎
波多野爽波
きのう「大八」、きょう「源五郎」(笑)。夏の季語だ。甲虫の仲間の小さな黒光りした虫で、水中を素早く泳ぎ回る。平井照敏の編纂した『新歳時記』(河出文庫)に、「子どもの頃の男の子の心を引きつけた虫」とあるように、愛敬があって、少しも気持ち悪くない。捕まえることはしなかったが、見ていて飽きない虫だった。何かの長さを測るために作者が「巻尺(まきじゃく)」を伸ばしていったら、その先に此奴がいたと言うのである。べつに人生の一大事件でもないし、いたからといって吃驚したのでもなければ作業を邪魔されたわけでもない。つまり、作者には何の関係もない虫が泳いでいただけで、それをわざわざ詠んだところに可笑しさがある。また単なる可笑しさだけではなく、句の奥のほうに戸外の作業で汗ばんでいる作者の姿がかいま見えるところに、得も言えぬ味わいがある。源五郎はスイーッスイーッと涼しい顔だが、作者は巻尺を伸ばしているくらいだから極めて慎重に事を進めている真顔なのだ。対比の妙と評すると月並みだが、とにかく爽波という人は選球眼が抜群に良かった。現役の野球選手に例えれば、巨人のペタジーニ選手みたいだ。絶対と言ってよいほどに、まずボールには手を出さないからである。巻尺を伸ばした先には、ぽつりと源五郎だけがいたわけじゃない。まずは池か小川などの水があり水辺があるわけで、そこには他の多くのものの存在がある。その多くのものの中から、何を拾い上げるのか。このセンスが俳人の勝負の分かれ目であり、爽波はほとんど拾い誤ったことはない。それは爽波が、いくつかの素材を瞬間的に接着することに俳句の面白さを見出していたからだろう。つまり球を打つ瞬間こそが一切で、そのボールがどこへ飛ぼうと、俺の知ったことじゃないという姿勢があった。その瞬間表現に、いままで見えなかった何かが見えてくる。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)
March 122010
口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
田中裕明
沈むは進行形ではなくて沈んでいる状態。水底にある木におたまじゃくしが乗っている。中七下五は的確な写生。伝統俳句と呼ばれる範疇での通常の作りかたは、この的確な写生の部分を壊さぬように、上五には、下部を援護する表現をもってくるのが普通であろう。春の水中が見えるにふさわしい光とか時間とか、空の色とか、風とか。しかし、それをやると風景構成としての辻褄が合い、絵としてのバランスはとれるが、破綻のない代わりに露店で売る掛軸のようなべたべたの類型的風景になりがちである。裕明さんの師波多野爽波さんはその危惧を熟知していたから、そのときその瞬間に偶然そこに在った(ような)事物を入れる。(巻尺を伸ばしていけば源五郎)のごとく。これをやると現実の生き生きとした瞬間が出るが、まったく作品としての統一感のない、なんのこっちゃというような「大はずれ」も生ずる。しかしべたべたの類型的風景を描くのを潔しとせず、「大はずれ」の危険性を冒して討って出るわけである。この句の口笛がそう。さらに口笛やの「や」も。意外なものを持ってきた上に「や」を付けてわざと読者の側に放り投げる。どんと置かれた「口笛や」が下句に対して効果的あるかどうか。さあ、どうや、と匕首のように読者はつきつけられている。『青新人會作品集』(1987)所収。(今井 聖)
July 182014
巻尺を伸ばしてゆけば源五郎
波多野爽波
工事現場だろうか。地面に巻尺を当てて伸ばしていったら、近くの池に源五郎がいたというのである。この句、描かれているものは、「巻尺」と「源五郎」だけだ。省略の効いた二物配合の句である。中七の「伸ばしてゆけば」は、動作の表現だけではなく、巻尺を伸ばしている時間をも感じさせる。それにしても、「巻尺」から「源五郎」へ飛躍するイマジネーションの柔軟なこと。意外性に溢れつつ、リアリティを失っていない作品である。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)
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