台風上陸。被害が出ませんよう。近所のコスモスが満開です。夏至というのに秋模様。




2004ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162004

 どしゃぶりと紛れぬていに滴れり

                           安東次男

語は「滴り」で夏。崖や岩、苔などを伝わってしたたり落ちる水滴のこと。雨によるものではなく、地表から滲み出た水のしたたりだ。夏場には、いかにも涼しげである。実景句と読めば、作者は山中の人だ。折悪しく雨降りとなり、それもどしゃぶりになってきた。そこで、しばし岩陰か、あるいは四阿(あずまや)のようなところに避難している。いずれにしても、大きな岩肌の見える場所だ。車軸を流すような雨のなかで、岩肌も水を走らせているのだが、よくよく見ると、そこには雨水の流れとははっきり違う滴りも混じっている。岩陰の苔が、常と変わらぬゆっくりとしたテンポで水滴を落しているのかもしれない。すなわち「どしゃぶりと紛れぬてい」で、滴りがいわば自己を主張している図である。観察力の繊細さが光る句と言えるだろう。が、一方で想像句として読んでも面白い。作者はたとえば書斎などの室内にいて、外は猛烈な雨である。ふと、かつて訪れて印象深かった山中での滴りの光景を思い出した。こんな雨があの山に降っているとしても、あれらの滴りは「紛れぬてい」で悠然と自己のペースを守りつづけているにちがいない。あくまでも凛とした山中の気配が、眼前に蘇ってくるのである。ところで「どしゃぶり」といえば、英語では「It rains cats and dogs.」と言うのだと、昔の教室で習った。愉快な表現だなとすぐに覚えてしまったのだけれど、しかし今日に至るまで、一度もこれを使った生きた英文にお目にかかったことがない。どうやら相当に古くさい言い方らしいのだが、使われた実例をご存知の方がおられたら、コンテクストも合わせて、ぜひともご教示いただきたい。『流』(1996・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


June 2062004

 恋人とポンポンダリアまでの道

                           坪内稔典

語は「(ポンポン)ダリア」で夏。英語のダリア名「Pompon」から来た名前だと言う。そんなに存在感のあるほうではない花だけど、よく見ると可憐で可愛らしい。しかし句の作者は、実物のポンポンダリアがどんな花かという知識を、さして読者に要求してはいないと思う。知っているにこしたことはない、という程度だ。というのも、句では「ポンポンダリア」の「ポンポン」が、ほとんど擬態語のように使われているからだ。恋人と並んで歩いている気分が「ポンポン」と弾むようなのであって、実物の花の様子は二の次という感じを受ける。だから、歩いてゆく先の道に実際に咲いていなくても構わない。とにかく、楽しくって「ポンポン」、わくわくして「ポンポン」なのである。そしてこの恋人同士は、ほとんど仲良しこよしみたいな関係で、セクシュアルな生臭さというものが一切ない。「ポンポン」が効いているからだ。二人はロウティーンくらいの年齢かとも思えるが、大人の恋人同士でも明るく軽い雰囲気で歩いていれば、やはりそれも「ポンポン」気分と言うべきか。いずれにしても、花の名前を擬態語に転化させて、人の気持ちの形容に使ったところが句のミソであり、楽しさである。この方法を応用すれば、たとえば「ぺんぺん草」だとか「きちきちバッタ」だとか、更には「ハリハリ漬け」なんかも、面白い句になりそうだ。いや、きっともうどこかの誰かが既に試みているに違いない。どんな具合に仕上がったのだろうか、読んでみたいな。『坪内稔典句集』(2003・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


June 1962004

 黒々とひとは雨具を桜桃忌

                           石川桂郎

十九歳の太宰治が女性と玉川上水で死んだのは、1948年(昭和二十三年)六月。入水したのは13日で、19日は遺体が見つかった日である。戦後三年目のことだった。当時の玉川上水は、いまと違って深くて流れも早く、土地の人は人喰い川と呼んでいたという。事実、都心から遠足に来た小学生が転落して溺れ、助けようとした教師が死んだ事件もあった。その先生の慰霊碑は、いまでも上水畔に見ることができる。句は桜桃忌が梅雨の最中であることを踏まえ、かつ戦後の暗鬱な世相をダブらせて詠まれている。太宰文学の暗さに、思いを馳せているのはもちろんだ。「黒々と」が、まことに骨太くそれを告げていて、頭を垂れた人々が戦後という雨期を影のように歩いてゆく姿が浮かぶ。このとき私は十歳で、遠く山口県の新聞で知った。当時の村では新聞の宅配はなく、すべての新聞は村役場まで届く。それを購読者は役場まで取りにいったものだが、私は毎日学校の帰りに寄って家の分を持ち帰っていた。そんなわけで、新聞はその日の日付のものではない。二日遅れか、あるいは三日遅れだったかの「朝日新聞」だった。小学生だったので、私が読めたのは漫画とスポーツ欄くらいだったけれど、太宰の入水のようなビッグ・ニュースだと大きく報じられたから、紙面にはタダゴトではない雰囲気が漂っていて、それで覚えているのだろう。他に紙面でよく覚えているは、同じ年の一月に起きた帝銀事件と、1950年(昭和二十五年)九月の伊藤律会見記だ。後者は三日後に記者のでっちあげとわかり、世間が騒然となった偽スクープ記事だった。日本共産党の大物・伊藤律はレッドパージで地下潜航中であったが、見出しは「姿を現した伊藤律氏 本社記者宝塚山中で問答」「徳田(球一)氏は知らない 月光の下 やつれた顔」というもの。縮刷版のこの日の社会面の中央部分は、いまでも削除されたまま白紙になっている。『合本俳句歳時記・新版』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)




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