三鷹市のゴミ分別が更に細分化される。「カラスはカラス…」の落語を思い出した。




2004ソスN6ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2562004

 夕菅は胸の高さに遠き日も

                           川崎展宏

ういうわけか、「夕菅(ゆうすげ)」はほとんどの歳時記に載っていない。ほぼ全国的に分布しているというのに、何故だろうか。淡黄色の花。日光キスゲの仲間で、その名の通り夏の夕刻に開花し、朝にはしぼんでしまう。その風情、その花の色から、はかなさを感じさせる植物だ。昔の文学少年少女たちは、たいていが実物よりも先に、立原道造のソネット「ゆうすげびと」でこの花のことを知った。「悲しみではなかった日の流れる雲の下に/僕はあなたの口にする言葉をおぼえた/それはひとつの花の名であった/それは黄いろの淡いあわい花だった//僕はなんにも知つてはゐなかった/なにかを知りたく うつとりしてゐた/そしてときどき思ふのだが 一體なにを/だれを待ってゐるのだらうかと//昨日の風に鳴っていた 林を透いた青空に/かうばしい さびしい光のまんなかに/あの叢に 咲いていた・・・・そうしてけふもその花は//思いなしだが 悔いのように----/しかし僕は老いすぎた 若い身空で/あなたを悔いなく去らせたほどに!」。こうして何十年ぶりかで読み返してみると、失恋までをも美化しなければおさまらない詩人のナルシシズムを強く感じる。が、若さとはそういうものであるかもしれない。この詩を読んだころのことを思い出してみると、何の違和感も持たずに愛読できたのだから、私の若さもまた深くナルシシズムに浸っていたのだろう。句の作者はいま「夕菅」を眼前にして、やはり若き日への郷愁に誘われている。立原の詩が、すうっと胸をよぎったのかもしれない。「遠き日」への曰くいいがたい想いが、甘酸っぱくも蘇ってきた。「胸の高さに」の措辞は、実際の夕菅の丈と過去への想いの(いわば)丈とに掛けられているわけだが、少しもトリッキーな企みを感じさせないのは流石だ。美しい句だ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)

[ 読者より ]「夕菅」の載っている歳時記などとして、俳句の花(創元社)、季語秀句辞典(柏書房)、中村汀女監修・現代俳句歳時記(実業之日本社)、新日本大歳時記(講談社)をご教示いただきました。


June 2462004

 屋根一つ一つに驟雨山を下り

                           廣瀬直人

語は「驟雨(しゅうう)」で夏。「夕立」に分類。山の斜面に、点々と家が建っている。そこへ、頂上の方からにわかに激しい雨が降ってきた。見る間に雨は「山を下り」てきて、さっきまで明るかった風景全体が墨絵の世界のように色を失う。雷も鳴っているだろう。夏の山国ではよく見かける光景だが、雨が一戸も外さず一つ一つの屋根を叩いて下りてきたという措辞は、言い得て妙だ。一見当たり前のような描写だが、このように言い止めることで雨の激しさが表現され、同時に山国の光景が現前され、句に力強さを与えている。山国に育った私としては、この的確さに唸らされた。まさに実感的に、この通りなのである。実感といえば、こうした自然の荒々しさを前にすると、人間というものはお互いに寄り添って生きていることを、いまさらのように感じさせられてしまう。「屋根一つ一つ」の下には、平素はさして付き合いのない人たちもいるし、なかにはムシの好かない奴もいたりする。が、ひとたび激甚の風雨来たれば、そんなことはどうでもよいことに思えてくる。「屋根一つ一つ」を順番に余さず叩く雨そのものが、人が身を寄せ合って生きている光景をあからさまに浮かび上がらせるからだ。驟雨は、短時間で止んでしまう。やがてまた日がパッと射してきた時に、私たちの心が以前にも増して晴れやかになるのは、単に厄介な自然現象が通り過ぎて安堵したということからだけではない。短時間の雨の間に、周囲に具体的に人がいるかいないかには関係なく、私たちのなかには他人に対する親和の心が芽生えているからだと思う。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


June 2362004

 母衣蚊帳の上に鳴りだすオルゴール

                           山本洋子

語は「母衣(ほろ)蚊帳」で夏。「蚊帳」に分類。そのものの存在は知っていても、はて何と言う名前のものなのか。知らないで、時々困ることがある。文芸誌の編集者時代に、河野多恵子から電車の車内に立っている金属製の棒、あれを何と呼ぶのかと尋ねられて絶句したことがあった。後でいろいろな人に聞いてみると、どうやら「握り棒」と言うらしいのだが、本当かどうかはいまだに確かめていない。雑誌「俳句」(2004年6月号)の宇多喜代子「古季語と遊ぶ」を読んでいたら、掲句が載っていた。そうだったのかと、思わず膝を打った。我が家にもあって良く知っていたということは、私や弟が使ったことになるわけだ。あの赤ん坊の昼寝のときなどに、身体にかぶせる小さな蚊帳のことを何と言うのか。いまのいままで、私は知らずにいたのである。現代では蚊帳一般が姿を消しているので、知らなくてもどうということはないけれど、気にはなっていた。言われてみれば、たしかにあの蚊帳は「ホロ(幌)」のような形をしている。それで「母衣蚊帳」なのかと、妙に感心してしまったのだった。句意は明瞭で、夏の午後に赤ちゃんが寝ている光景だ。突然、上に吊ってあるオルゴールが鳴りはじめた。作者ははっとして赤ちゃんを見つめたのだが、相変わらずすやすやと眠っている。そんな微笑ましい日常の一齣である。ところでもう一つ、この「オルゴール」も本当は何と言うのかを知らないままにきた。音源はたしかにオルゴールだろうが、いろいろカラフルな飾りも着いていて、メリーゴーラウンドみたいにくるくる回る仕掛けだ。赤ちゃん用だから、なんとなくガラガラのような単純な名前がついていそうな気がする。が、一度もあの名前を具体的に呼んでいるのを聞いたことがない。玩具店で聞けば、わかるだろうか。業界用語でもよいから、知りたいものだ。(清水哲男)




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