日曜の電話にはセールスが多い。出ないわけにもいかないし…。昼寝の邪魔するな。




2004ソスN7ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0472004

 駆け落ちをしての鮨屋や鱧の皮

                           吉田汀史

語は「鱧(はも)の皮」で夏。鱧といえば関西だ。最近は東京あたりでも出す店が増えてきたが、本場には適わない。鱧がないと、夏のような気がしないという。身は天ぷら、蒲焼き、蒸し物などにし、皮も強火であぶったり二杯酢にして食べる。作者は徳島の人だけれど、鱧を珍重することでは徳島も関西と変わらないのだろう。行きつけの鮨屋で注文もしないのに、箸休めとして、鱧の皮が出てきた。主人からの粋な夏の挨拶なのである。彼は「駆け落ちをして」この地にたどり着き、苦労の末にこの店を開いた男だ。近隣の噂話でか、あるいは問わず語りに聞かされたのか、作者は知っており、彼は苦労人であるがゆえに客への気配りは申し分がない。季節ものをいち早くすっと無言で出すところなども、大いに気分がよろしい。「夏は来ぬ……か」と、作者は微笑しつつ箸を付け、ちらりと主人の顔を見て、彼の来し方に思いを巡らせたことだろう。まるで短編小説のような味わいのある句で、「駆け落ち」と「鱧の皮」との取り合わせが、東京とはまた違った人情の世界を浮かび上がらせている。ご年配の方ならば、この句から上司小剣の代表的な短編小説『鱧の皮』を連想された方もおられるだろう。句とはシチュエーションも違うが、男女関係に発する人情に触れているという点では共通している。この小説でも実に鱧の皮がよく効いていて、田山花袋が絶賛したというのもうなずける。なかに「『あゝ、「鱧の皮を御送り下されたく候」と書いてあるで……何吐(ぬ)かしやがるのや。」と、源太郎は長い手紙の一番終りの小さな字を読んで笑つた。/『鱧の皮の二杯酢が何より好物だすよつてな。……東京にあれおまへんてな。』」という会話が出てくる。俳誌「航標」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


July 0372004

 手花火や再従兄に会はぬ二十年

                           片山由美子

語は「(手)花火」で夏。夏の風物詩と言われるものも、だんだんに姿を消しつつあるが、花火だけは昔と変わらず健在だ。我が家でも孫がやってくると、水を入れたバケツを用意して、近所のちっぽけな公園で楽しむ。作者は通りがかりにそんな光景を見かけたのか、あるいは自分で楽しんでいるのか。闇に明滅する火の光りを見ているうちに、ふと長い間会っていない「再従兄(はとこ)」のことを思い出した。昔はいっしょに花火でよく遊んだものだが、数えてみると会わなくなってからもうかれこれ二十年も経ってしまった。元気にしているだろうか。花火には、そんな郷愁を誘うようなところがある。二十年という歳月感覚は微妙で、三十年ならば完全に疎遠になっているということだし、十年ならばまだ交際が切れているとは言えないだろう。しかし二十年くらいの隔たりだと、あまり思い出すこともなくなるが、思い出しても、このまま一生会うことがないかもしれぬと淋しくなったりする。そのような微妙な感覚が、手花火の光りのはかない生命によく照応している。ところで、再従兄は親が従兄同士である子と子の関係を指す。またいとこ、とも。はじめからかなり遠い親戚筋の関係にあるわけで、親の親戚付き合いがよほどこまめでないと、なかなか再従兄同士が知り合う機会は得られない。私の場合を考えてみたが、それと自覚して再従兄に会ったことはないと思う。再従兄どころか従兄にすら、三十年も前の叔父の法事の席で会ったのが最後になっている。遠い親戚より近くの他人。昔の人はうまいことを言ったものだ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)


July 0272004

 野外劇場男と女つと立ちて

                           岩淵喜代子

語は見当たらないが、「野外劇場」で催しをやっているのだから、夏と解しておいてよいだろう。近所の井の頭公園に野外音楽堂があるので、ああいうところを連想した。時刻も不明ながら、涼しくなってくる夕暮れ時以降だろうか。作者が催し物を観ていると、目の前あたりに坐っていた「男と女」が「つと」唐突に立ち上がったと言うのである。この「つと」というたった二文字の副詞が実によく効いていて、記憶に残った。「つと」立ったということは、お互いがあらかじめ立つことを示し合わせていたということになる。催しがつまらなかったりして、立とうかどうしようかと逡巡した様子は見えない。示し合わせた時間になったので、催しとは無関係にすぱりと立ち上がったのだ。その上に、この「つと」は二人の関係も暗示しているようである。誰か知っている人に見とがめられると困る関係。いや、二人で見物しているところは見られても構わないのだが、中座するところを見られると困るという事情がある。そんな関係。二人はなるべく早くその場から立ち去りたいので、互いに無言で「つと」立って足早に暗いほうへと消えてゆく。ミステリーめかして言え添えれば、彼らの野外劇見物はアリバイ作りだったのかもしれない。作者はむろん、そんなことをいろいろと思い巡らしたわけではないのだが、「つと」立った「男と女」の後ろ姿に、一瞬自分にも周囲の観客にもなじまない特異な雰囲気を感じて、こう書きとめてみたのだ。あまりにも互いの呼吸が合い過ぎた動作は、秘密裡のそれと受け取られやすく、かえって人目を引いてしまうということになろうか。『かたはらに』(2004)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます