必ず家族四人で帰国します。何が彼女にこう明言させるのか。ひょっとして筋書きが。




2004ソスN7ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0872004

 明易き人生ああ土根性は

                           小川双々子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。夏の夜が明け易いように、人生もまた明け易い。光陰矢の如し。時間ばかりが、どんどん過ぎてゆく人生……。夏の早暁に目覚めた作者の実感的連想だろう。人生に欠かせないキーワードはいろいろあるが、あえていまどき流行らない「土根性(どこんじょう)」を持ちだしたところが面白い。戦後の日本人総体のありようを振り返ってみれば、なんだかんだと言ったって、この「土根性」という曖昧な精神力でがむしゃらに驀進してきたような気がする。猛烈サラリーマン、それが飛び火したスポ根ものの隆盛。そんな時代が、確かにあった。このときに句の「ああ」という詠嘆は、複雑だ。土根性いま何処でもあれば、いまこそその残り火を掻き立てよ、でもある。そしてまた「ああ」には、早暁の夢の醒めぎわで、「土根性」などという自分でもびっくりするような、思いがけない言葉が出てきてしまったことへの苦笑も含まれているだろう。妙なことを言うようだが、この句を目覚めのときに思い出すと、けっこう床離れがよくなる。「明易き人生」で意識は静かに覚醒してくるが、次の「ああ」以降を復唱するととても寝てはいられない気持ちになってくる。跳ね起きてしまう。一瞬、忘れていた(土)根性がよみがえり、わけもない焦燥感にかられるからだろうか。お試しあれ。俳誌「地表」(第434号・2004年5月刊)所載。(清水哲男)


July 0772004

 おとうとをトマト畑に忘れきし

                           ふけとしこ

語は「トマト」で夏。フィクションととらえてもよいし、かつて実際にあったこととしてもよい。この句の良さは、実に的確に「おとうと」のありようが把握されているところだ。彼の年代は、学齢前のちょこまかと動き回るころだろう。お姉ちゃんの行くところには、どこにでも就いてきたがる。就いてくるのはよいのだが、なかなか言うことは聞かないし、自分の関心事にすぐに没頭して座り込んだりと、世話が焼ける。そしてときには、ぷいと断りもなく帰ってしまったりして、面倒を見きれないとはこのことだ。今日も今日とて、近くのトマト畑に就いてきた。お姉ちゃんはトマトをもぎに来たわけだが、彼は彼で勝手に畑を動き回っている。いつものことだから勝手にさせておき、さて帰ろうとして見回すと姿が見えない。小さいからトマトのかげにいるのかと少し探してみて、名前を呼んでもみたけれど、どうももう畑にはいないようである。また先に帰ったのだと軽い気持ちで家に戻ってみると、まだ帰ってはいないという。昼間だから、別に真っ青になる事態ではない。「まったく仕様がないなあ」。幼き日の作者であるお姉ちゃんは、ぷんぷんしながら迎えに行かなければならなかった。日盛りのトマト畑に来てみると、小さな麦わら帽子が揺れていた。遠い遠い思い出だ。でも、いまとなってはとても懐かしい。そんな郷愁を呼ぶ佳句である。実際の出来事だとしても、むろん大人になった「おとうと」は覚えていないだろう。よくあることだが、そこがまた作者の郷愁をいっそう色濃いものにするのである。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


July 0672004

 ずつてくる甍の地獄蜀葵

                           竹中 宏

語は「蜀葵(たちあおい・立葵)」で夏。ふつう「葵」と言うと、この立葵を指すことが多い。茎が真っすぐに伸びるのが特長で、そういうことからか、「野心」「大望」などの花言葉もある。「甍(いらか)」は瓦葺きの屋根のこと。♪甍の波と雲の波……の、あれです。句の表面的な情景としては、瓦屋根の住宅の庭に「蜀葵」が何本か、すくすくと成長して例年のように花を咲かせているに過ぎない。たいがいの人は、この季節の風物詩として観賞し微笑を浮かべるだけだが、作者はちょっと違う。無邪気に天に向かって背を伸ばしている蜀葵の身に、何か不吉な予感を抱いてしまったのだ。この天真爛漫さは危ない、と。しっかりと頭上を見てみよ。何が見えるか。そうだ、甍だ。気がついていないだろうが、あの甍は時々刻々わずかながらも少しずつ「ずつて」きている。このままいくと、やがては甍が頭上から一気にずり落ちてくるんだ。君らの上にあるのは「甍の地獄」なのだぞ。とまあ、簡単に言えばそういうことで、むろん作者は甍の落下が現実化するなどとは思ってもいないのだけれど、あまりに無防備な蜀葵の姿に接して、逆に不安を感じてしまったというところか。黒いユーモアの句であるが、事象の表面だけからではとらえられない現代の様相の怖さを示唆した句でもある。そしてこの句はまた、木を見て森を見ない態の句が氾濫する俳句界への批評と受け取ることもできるだろう。『アナモルフォーズ』(2003)所収。(清水哲男)




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