ドイツから娘一家がやってくる。毎夏のことではあるが、しばらくは民宿状態になる。




2004ソスN7ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1272004

 百日紅鮮やかヘルンの片眼鏡

                           藤本節子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏。これを書いている窓からは、咲き始めた紅い花が見えている。「ヘルン」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)で、当人は「ハーン」の「ー」の音を嫌い「ヘルン」を好んでいたそうだ。子供の時に左目を失明し、右目も極度の近視だった。写真を見ると右顔しか見せていないが、たぶん左の義眼を苦にしていたのだろう。ところで、句はどんな情景に発想したのだろうか。松江の旧居や記念館には行ったことがないので、百日紅があるのかどうかは知らないが、あるとしたら松江の夏を詠んでそれこそ「鮮やか」だ。だが、もう一つまったく別の情景を想像することも可能である。八雲が没したのは、今からちょうど百年前の九月二十六日。葬儀は市ヶ谷の寺で執り行われ、寺の庭には百日紅が勢いよく咲いていたという証言が残っている。となると、これは追悼句であり、遺品の「片眼鏡」を通してのヘルン哀惜の情が、これまた鮮やかに浮かんでくる。私の好みでは後者に与したいけれど、どうだろうか。ただ、ヘルンは片眼鏡をあまり使わなかったらしい。珍しく使った例を、親しく謦咳に接した廚川白村が書いている。ヘルンは西洋人を嫌い、とくに女性を毛虫のように嫌っていた。ところがある日、彼の講義に、断りもなく西洋の女性教育家たちが参観に来た。「殆ど視力の利かなかつた小泉先生でも、この思ひ掛けない闖入者(イントルウダア)のあるのには氣附かれたものか、滅多に用ゐられない例のあの片眼鏡(モノクル)を出された。それを右の目に当てがつて女どもの方を凝視すること三四秒。また直ちにそれを衣嚢に収めて講義を続けられた。/其瞬間、思ひなしか、先生の面には不快の色が現はれた」。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1172004

 學徒劇暑し解説つづきをり

                           後藤夜半

十数年ほど前の句。ちょうど私が「學徒(学生)」だったころの話だから、思わず苦笑させられた。たしかに理屈っぽかったなあ、あのころの学生は……。演劇のことはよく知らないが、スタニスラフスキー・システムがどうのと、演劇部の連中はよく議論してたっけ。チケットを売りつけられてたまに見に行ったけど、能書きばかりが先に立って、よくわからない芝居が多かった。作者もまた、そんな演劇を見ている。はじまる前に解説があって、それがヤケに長いのだ。当時のことゆえ、学生が借りられるような会場に冷房装置はないのだろう。長く七面倒くさい解説にはうんざりさせられるし、暑さはますます厳しいし、何の因果でこんなものを見に来る羽目になったのかと、我が身が恨めしい。どうやら、まだまだ解説はつづくようだ。やれやれ、である。いまどきの学生演劇でこんなことはないと思うが、演劇に限らず、昔の学生の文化活動には、どこか啓蒙臭がつきまとっていた。無知なる大衆の蒙を啓こうとばかりに、ときには明らかな政治的プロパガンダの意図を持って、さまざまなイベントが展開されていた。傲慢といえば傲慢な姿勢ではあるが、しかし一方で自分たちの活動に純粋な信念を持っていたのも確かだ。このことの是非は置くとして、作者ならずとも、心のうちでは文句を言い、大汗たらたら、団扇ぱたぱたで、しかし大人しく(!!)開幕を待つ人たちの姿が彷彿と浮かんでくる一句だ。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


July 1072004

 花二つ紫陽花青き月夜かな

                           泉 鏡花

明過剰とも見えるが、二三度読むうちにしっとりと落ち着いてくる。いかにも鏡花らしい句と思うからだろうか。先入観、恐るべし。「花二つ」が、句の生命だ。一つでは寂しいだけのことになり、三つ以上だと「月夜」にはにぎやかすぎて「青」が浮いてしまう。二つという数は関係の最小単位を構成するから、二つ咲いているのは偶然だとしても、人はその花と花とに何らかの関係を連想するのである。梅雨時の月光ゆえ、秋のそれのようには冴えてはいない。そんな光の中に、二つの紫陽花がぼおっと灯るように咲いている。お互いに寄り添うように、心を通わせるようにと、作者には思われたのだろう。この句については、鏡花の姪(のちに夫人の養女)である泉名月が次のように書いている。「十歳代の頃は、濃緑色の短冊の、この句を眺めると、月夜に咲く、二つの紫陽花の花を思い浮かべていた。幾年も星霜を重ねて、年月が経った今日この頃、花二つの紫陽花の意味は、一つの花は詩情、一つの花は画情をさすのであろうかと、こう、思いめぐらすようになってきた。それとも、二つの花は、人と花、芸と人、恋人二人、現実と浪漫、、それとも、そのほかの、さまざまな深い思いが、花二つの中に、込められているのかも知れないと思ったりする」。と、いろいろに読める句だ。今年も、そろそろ紫陽花の季節が終わろうとしている。『父の肖像2』(2004・かまくら春秋)にて偶見。(清水哲男)




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