H句

July 1472004

 百年の井戸を埋め終へ夕端居

                           寒川雅秋

語は「(夕)端居(はしい)」で夏。俳句に親しんでいる人以外には、もはや死語と言ってもよい言葉だ。「端」は縁先や窓辺を指していて、家の中の暑さを避けて涼気を求めること。扇風機もなかったころ、夕刻や宵の口の「端居」はくつろぎの一刻だった。作者は、代々「百年」あまりも使ってきた井戸を埋め終えて「端居」している。句集によれば、台風で大きく損壊したので、思い切って埋めてしまったようだ。もう使っていない井戸だから、日常的に不自由することはないのだけれど、三代か四代かの生命生活を支えてくれた井戸を潰すのには、やはり相当の覚悟が必要だったろう。埋めるといっても、単に土砂を放り込むのではなく、その前に長年の水神の恩に感謝し災い無きことを祈ってお祓いをしてもらう。そうした手順をきちんと踏み、埋めてくれた作業の人も帰った夕刻、ひとり作者は今朝まであった井戸のあたりを見つめている。ほっとして見つめながらも、しかし一方で、果たしてこれで良かったのかという思いも湧いたに違いない。残しておいたとしても、さして邪魔になるわけでもなかったしと、ちらりと悔いの念が走ったかもしれない。百年の井戸埋めは作者の個人的な体験だとしても、他の体験で、似たような思いをした人は多いだろう。役立たずになったからといって簡単に破棄や放棄できないものは、たくさんある。この思いと「端居」の「端」とが静かに響き合っていて、心に沁みる一句となった。『百年の井戸』(1999)所収。(清水哲男)




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