新潟福島地方への集中豪雨、なお土砂崩れなどの危険ありと。お見舞い申し上げます。




2004ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1572004

 片蔭をうなだれてゆくたのしさあり

                           西垣 脩

語は「片蔭(かたかげ)」。夏の日陰のことで、木陰などより町並みや家々の陰を指す。読んだ途端に、あれっと引っかかる句だ。元気な若者には、理解しにくい句境だろう。といって、私もちゃんと理解している自信は無いのだが……。「うなだれてゆく」のが、何故「たのしさ」に通じるのか。あまりの日照りに、作者は片蔭から片蔭へと道を選んで歩いている。もうそれ自体が、日差しに昂然と抗するように歩いている人に比べれば、実際の姿勢はともかく、精神的には「うなだれて」いることになる。そのことを、まず作者は自覚しているのだ。そして、いくら日陰を選って歩いているからといっても、暑さから逃げ切ることなどはできない。大汗をかきながら、トボトボとなお「うなだれて」歩きつづける。で、そのうちに、身体の疲労感がいっそう増してきて、頭がぼおっとなりかけてくる。そのあたりの感覚を「たのしさ」と詠んだのではなかろうか。自虐趣味ともちょっと違うが、そこに通じていく回路のトバグチ付近に、作者は立っているようである。暑さも暑し、へたばりそうになる我が身を引きずるように歩いているうちに、いつしか疲労感が恍惚感と入り交じってきて、一種の隠微な「たのしさ」すら覚えるようになるときがある。あえて平仮名を多用したところに、人の心理と生理との不思議な交錯状態をたどたどしく描こうとする作者の意図を感じた。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1472004

 百年の井戸を埋め終へ夕端居

                           寒川雅秋

語は「(夕)端居(はしい)」で夏。俳句に親しんでいる人以外には、もはや死語と言ってもよい言葉だ。「端」は縁先や窓辺を指していて、家の中の暑さを避けて涼気を求めること。扇風機もなかったころ、夕刻や宵の口の「端居」はくつろぎの一刻だった。作者は、代々「百年」あまりも使ってきた井戸を埋め終えて「端居」している。句集によれば、台風で大きく損壊したので、思い切って埋めてしまったようだ。もう使っていない井戸だから、日常的に不自由することはないのだけれど、三代か四代かの生命生活を支えてくれた井戸を潰すのには、やはり相当の覚悟が必要だったろう。埋めるといっても、単に土砂を放り込むのではなく、その前に長年の水神の恩に感謝し災い無きことを祈ってお祓いをしてもらう。そうした手順をきちんと踏み、埋めてくれた作業の人も帰った夕刻、ひとり作者は今朝まであった井戸のあたりを見つめている。ほっとして見つめながらも、しかし一方で、果たしてこれで良かったのかという思いも湧いたに違いない。残しておいたとしても、さして邪魔になるわけでもなかったしと、ちらりと悔いの念が走ったかもしれない。百年の井戸埋めは作者の個人的な体験だとしても、他の体験で、似たような思いをした人は多いだろう。役立たずになったからといって簡単に破棄や放棄できないものは、たくさんある。この思いと「端居」の「端」とが静かに響き合っていて、心に沁みる一句となった。『百年の井戸』(1999)所収。(清水哲男)


July 1372004

 寝ころぶを禁ず寺院の夏座敷

                           田宮真智子

語は「夏座敷」。句を読んで、ふと京都嵐山の禅寺・天龍寺の大方丈を思い出した。四十八畳敷きという広さだ。学生時代に一人で気まぐれに訪ねて、しばし寝ころんでいたことがあった。たしか暑い盛りだったと思うが、観光客の影も見えず、まさに唯我の境。あまりにも気持ちがよかったので、もう一度あそこで寝ころんでみたいと思いつつ、果たせずに四十数年が経ってしまっている。でも、もう駄目だろうなあ。句のように、おそらくは「寝ころぶを禁ず」となっているに違いない。お寺さんも、近年は野暮になってきた。拝観料という名の入場料は取るし、撮影は禁止とくるし、あれしちゃいけない、これもいけないと、こんなのはみな仏の道に反するのではあるまいか。寝ころぶなどは、禁じなくともよいのではないか。何か不都合があるのかと考えてみたが、思い当たらない。寝ころぶどころか昼寝をしたい人がいれば、自由にさせてあげる。それくらいの広い心がなくて、なんの「寺院」だろう。作者は別にいきどおっているわけではないけれど、この寺のたたずまいなどを詠まずに貼り紙を詠んだところに、寺側の現世への俗な執着をうとましく思う気持ちが滲んでいる。せっかくの広々とした「夏座敷」のすずやかな印象も、一枚の貼り紙で減殺されてしまった。現代ならではの皮肉を含んだ句だが、そんな現代が作者とともに恨めしい。『小鳥来る』(2004)所収。(清水哲男)




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