増俳八周年記念懇親句会。半年前にご応募いただいた70名読者諸兄姉が集うオフ会です。




2004ソスN7ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3172004

 かの映画ではサイレント夏怒濤

                           依田明倫

前には、夏の海がギラギラと展がっている。むろん、激しく打ち寄せる波の音も聞こえてくる。が、作者はその「怒濤(どとう)」を、いつかどこかで見たようなと思い起こし、それが映画の一シーンであったことに気がついた。と同時に、映画の怒濤には音が付いていなかったことも……。このように現実を前にしながら、非現実の映像を重ねてしまうというようなことは、しばしば起きる。私も怒濤を目にするたびに、何故かかつての東映映画のクレジット・タイトルを思い出してしまう。あれも「サイレント」だったような気がするが、ひょっとすると作者もあのタイトルのようだと思ったのかもしれない。あるいはそのままに、昔見たサイレント映画を思い出したと読んでもよい。いずれにしても、現実と映像が自分のなかで交互に行き来する心的現象は、現代ならではのものだ。それが嵩じて、現実とフィクションの世界の区別がつかなくなる可能性も、無きにしも非ずだろう。だから危険だと言って、フィクショナルな表現に規制をかけようとする動きも出てくるわけである。いささか話が先走りすぎたが、作者は「かの映画」の怒濤を思い出したときに、それを見た頃の自分や生活環境などにも、ちらりと心が動いたにちがいない。思わぬときに思わぬところから、人は不意に郷愁に誘われるのでもある。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


July 3072004

 帰省して蛍光燈を替へてゐる

                           田中哲也

語は「帰省」で夏。夏休みで、久しぶりに父母のいる実家に戻ってきた。早速、母親に頼まれたのだろうか。暗くならないうちにと、脚立に上って「蛍光燈を替へている」のである。それだけのことなのだけれど、帰省子の心情が、ただそれだけのことなので、逆に余計によく伝わってくる。私にも体験があるからわかるのだが、とくにはじめての帰省の時などは、遠慮などいらない実家のはずなのに、なんとなく居心地の悪さを感じたりするものなのだ。むろん客ではないが、かといって従来のような家族に溶け込んでいる一員というのでもない。互いに相手がまぶしいような感じになるし、気ばかり使って応対もぎごちなくなってしまう。肉親といえどもが、しばらくでも別々の社会に生きていると、そんな関係になるようだ。だから、こういうときに例えば蛍光燈を替えるといった日常的な用事を頼まれると、ほっとする。すっと、理屈抜きに以前の家族の間柄に戻れるからである。句の「蛍光燈を替へている」が「替へにけり」などではなくて、現在進行形であることに注目したい。いままさに蛍光燈を替えながら、やっとそれまでのぎごちない関係がほぐれてきつつある気分を、なによりも作者は伝えたかったのだと思う。替え終えて脚立から下りれば、もうすっかり従来の家族の一員の顔になっている。『碍子』(2002)所収。(清水哲男)


July 2972004

 嘆きとかアイスキャンデーとか湖畔

                           池田澄子

語は「アイスキャンデー(氷菓)」で夏。言葉には表情がある。「湖畔(こはん)」は「湖のほとり」や「湖の近辺」を意味するに過ぎないが、しかし「湖のほとり」と「湖畔」とでは明らかに表情が違うのである。湖畔はいわば雅語であり、あまり俗なことを言うときには似合わない。高峰三枝子の流行歌「湖畔の宿」ではないけれど、傷心の女が訪ねたりするのが湖畔なのであって、句の「嘆き」はそのあたりに通じさせてある。で、一方の「アイスキャンデー」は俗の代表みたいなもので、嘆きとセットでイメージしてみると、湖畔という言葉の持つ雅びな雰囲気はぶちこわしだ。第一、傷心の女がアイスキャンデーを舐めたのでは、絵にならない。でも掲句は、湖畔といっても「いろいろ、あらあナ」と皮肉っているだけではないだろう。人は言葉を操っているうちに、言葉それ自体についてまわっている一般的な表情を、はぎ取りたい欲望にかられるときがある。季語としての言葉などはその代表格で、何でもよろしいが、名句やら何やらがつきまとうが故の季語の表情に、イライラした経験を持つ人も多いだろう。だから私は掲句を、湖畔という言葉への皮肉ととる前に、言葉の表情への苛立ちをそのまま軽いジャブとして突き出してみせる作者の手つきのほうに惹かれた。俳誌「豈」(39号・2004年7月30日刊)所載。(清水哲男)




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