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July 3172004

 かの映画ではサイレント夏怒濤

                           依田明倫

前には、夏の海がギラギラと展がっている。むろん、激しく打ち寄せる波の音も聞こえてくる。が、作者はその「怒濤(どとう)」を、いつかどこかで見たようなと思い起こし、それが映画の一シーンであったことに気がついた。と同時に、映画の怒濤には音が付いていなかったことも……。このように現実を前にしながら、非現実の映像を重ねてしまうというようなことは、しばしば起きる。私も怒濤を目にするたびに、何故かかつての東映映画のクレジット・タイトルを思い出してしまう。あれも「サイレント」だったような気がするが、ひょっとすると作者もあのタイトルのようだと思ったのかもしれない。あるいはそのままに、昔見たサイレント映画を思い出したと読んでもよい。いずれにしても、現実と映像が自分のなかで交互に行き来する心的現象は、現代ならではのものだ。それが嵩じて、現実とフィクションの世界の区別がつかなくなる可能性も、無きにしも非ずだろう。だから危険だと言って、フィクショナルな表現に規制をかけようとする動きも出てくるわけである。いささか話が先走りすぎたが、作者は「かの映画」の怒濤を思い出したときに、それを見た頃の自分や生活環境などにも、ちらりと心が動いたにちがいない。思わぬときに思わぬところから、人は不意に郷愁に誘われるのでもある。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


November 09112007

 鮭のぼるまつはりのぼるもののあり

                           依田明倫

のを写していると、どこかで、人生や社会の寓意や箴言に変貌することがある。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂や飛んで火に入る夏の虫などと同様のあり方。「写生」がものそのものの描写を離れて比喩としてひとり歩きしてゆく。ひとり歩きしてゆくことに対して作者はどうこう言ってみようもない。実はこうなんだと言って解説してみせるほどみっともないことはない。しかし、誰もがはたと膝を打って寓意に転ずる描写は「写生」の本意ではないと僕は思う。「もの」に見入ることが同時に「自分」に見入ることにつながるというのが、茂吉の「実相観入」や楸邨の「真実感合」の根本にあった。そういう態度を持っての「写生」も寓意に傾く可能性を拡げてはいまいか。鮭が遡上してゆく。その魚のからだのまわりに微小な塵のごときものが見える。澄んだ水中のもろもろである。「まつはりのぼるもの」をまず思念として捉えるのではなく、そのまま実景として読みたい。鮭ののぼってくる川をよく知る人でなければできない把握である。実景としてのリアルを「像」として読んで、そこから比喩でも寓意でも戯画でもなんでも拡げていけばいい。ものを写すという方法の核は五感の「リアル」そのものの中にある。「現代秀句選集」(1998)所載。(今井 聖)


October 29102010

 狩の犬魔王の森を出できたる

                           依田明倫

王は仏教でいう天魔か。シューベルトの歌曲の名か。あるいは悪魔の王という字義どおりか。狩が出てくるから歌曲にある洋風の風景が根幹にあるのか。僕など森と聞くだけで日本的な風景とは異質なものを感じる。鎮守の森だってあるのに。日本にふさわしいのは林だろう。森と林では木が一本違う。作者は北海道在住だからこんなスケールの大きな自然が詠めるのだろう。魔王の森のスケールも見てみたいが、地平線も見たことがない。砂漠も見たことがない。いつか見てみたい。「俳句朝日」2003年10月号所載。(今井 聖)




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