阪神・金本知憲外野手が701試合連続フルイニング出場の日本新記録達成。おめでとう。




2004ソスN8ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0282004

 暑き故ものをきちんと並べをる

                           細見綾子

語は「暑き(暑し)」。人の性(さが)として、炎暑のなかでの行為はどうしても安きに流れがちだ。注意力も散漫になるし、適当なところで放り出したくなる。だが、そうした乱雑な振る舞いは、結局は精神的に暑さを助長するようなもので芳しくない。たとえば取り散らかした部屋よりも、きちんと片付いている部屋のほうに涼味を感じるのはわかりきったことだ。なのに、ついつい私などは散らかしっぱなしにしてしまう。で、いつも暑い暑いとぶつぶつ文句を言っている。掲句では、何を「並べをる」のかはわからないが、それはわからなくてもよい。暑いからこそ、逆に普段よりも「きちんと」しようという意思そのものが表現されている句だからだ。それも決して大袈裟な意思ではなくて、ちょっとした気構え程度のそれである。でも、この「ちょっと」の気構えを起こすか起こさないかは大きい。その紙一重の差を捉えて、句は読者に「きちんと」並べ終えたときの良い心持ちを想起させ、暑さへのやりきれなさをやわらげてくれている。句に触れて、あらためて身辺を見回した読者も少なくないだろう。むろん、私もそのひとりだ。『冬薔薇』(1952)所収。(清水哲男)


August 0182004

 ひまはりと高校生らほかにだれも

                           竹中 宏

語は「ひまはり(向日葵)」で夏。漢字名のように、花は太陽の動きにあわせて向きを変える。たくさん咲いていても、どれもみな同じように見える。その向日性において、また同じように見えるという意味でも、高校生の集団に通い合うものがありそうだ。夏休み、部活かなにかの「高校生ら」が向日葵の咲く野か路傍に見えている。炎天下ということもあり、元気な彼ら以外には「ほかにだれも」いない。こうした夏の白昼の光景は、なんだかサイレント映画のように森閑とした印象だ。その印象が、作者をみずからの高校生時代の記憶に連れて行ったのだろう。面白いもので、過去の記憶に絵はあっても、めったに音は伴わない。だからこのときの作者の眼前の光景と過去のそれとは苦もなくつながる理屈で、とたんに作者は過ぎ去ってしまった青春に深い哀惜の念を覚えたのだ。と同時に、いま眼前にある高校生らと向日葵の花の盛りの短さにも思いがいたり、青春のはかなさをしみじみと噛みしめることになった。「ほかにだれも」で止めたのは、いま青春の只中にあるものらへの作者の優しさからだ。彼らは昔の自分がそうであったように、はかなさに気づいてはいない。ならば青春は過ぎやすしなどと、あえて伝えることもないではないか。「だれも(いない)」と口ごもったところに、句の抒情性が優しくもしんみりと滲んでいる。『花の歳時記・夏』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


July 3172004

 かの映画ではサイレント夏怒濤

                           依田明倫

前には、夏の海がギラギラと展がっている。むろん、激しく打ち寄せる波の音も聞こえてくる。が、作者はその「怒濤(どとう)」を、いつかどこかで見たようなと思い起こし、それが映画の一シーンであったことに気がついた。と同時に、映画の怒濤には音が付いていなかったことも……。このように現実を前にしながら、非現実の映像を重ねてしまうというようなことは、しばしば起きる。私も怒濤を目にするたびに、何故かかつての東映映画のクレジット・タイトルを思い出してしまう。あれも「サイレント」だったような気がするが、ひょっとすると作者もあのタイトルのようだと思ったのかもしれない。あるいはそのままに、昔見たサイレント映画を思い出したと読んでもよい。いずれにしても、現実と映像が自分のなかで交互に行き来する心的現象は、現代ならではのものだ。それが嵩じて、現実とフィクションの世界の区別がつかなくなる可能性も、無きにしも非ずだろう。だから危険だと言って、フィクショナルな表現に規制をかけようとする動きも出てくるわけである。いささか話が先走りすぎたが、作者は「かの映画」の怒濤を思い出したときに、それを見た頃の自分や生活環境などにも、ちらりと心が動いたにちがいない。思わぬときに思わぬところから、人は不意に郷愁に誘われるのでもある。「俳句研究」(2004年8月号)所載。(清水哲男)




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