夏休み。どこに行っても子供がいる。うるさかったりするけれど活気があってよろしい。




2004ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0582004

 缶詰の蜜豆開ける書斎かな

                           下山田禮子

語は「蜜豆」で夏。読書中か、あるいは何か書き物をしているのだろうか。ふっと蜜豆が食べたくなって、冷蔵庫に冷やしておいた「缶詰」を出してきた。人によりけりではあるが、書斎でお八つを食べたりするときには、しかるべき器に入れたり盛ったりしてから食べるのが普通だろう。作者もまた、通常はそうしている。でも、このときにはそれをしないで、書斎で缶詰を開けたのである。つまり、大仰に言えば厨房の作業を書斎に持ち込んだのだ。よほど忙しいのか、ずぼらを決め込んだのか。とにかく日頃とは違う作業を書斎ではじめてみると、やはり違和感を覚えてしまう。汁が飛び散ってはいけないとか、ましてやひっくり返しては大変だとか、つかの間のことにしても、厨房とは違った配慮も必要だからだ。そうすると、いつもは何とも思っていなかった書斎空間が、これまた大仰に言えば異相を帯びて感じられることになった。それが、作者をして「かな」と言わしめた所以であろう。このときの缶詰は、いまどきのように蓋をすっと引き開けるものではなくて、缶切りで開けるタイプのものがふさわしい。食べるのも、器に移し替えずにそのままスプーンで掬うほうが、句にはよく似合う。缶特有の匂いが、ちょっと蜜豆のそれに混ざったりして……。『恋の忌』(2004)所収。(清水哲男)


August 0482004

 蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた

                           吉田汀史

の声、しきり。八月になると、どうしても戦争の記憶が蘇ってくる。といっても、私は敗戦時にはまだ七歳で、先輩方に言わせればぬるま湯のような記憶でしかないことになるのだろう。それでも、東京に暮らしていたから、連日の空襲の記憶などは鮮明だ。白日の空中戦も、何度か目撃した。庭先に掘られた「防空壕」には昼夜を問わず、空襲警報のサイレンが鳴れば飛び込んだものである。立派な防空壕じゃないから、四囲の壁などは剥き出しの土のままだった。夏場には、入るとひんやりとはしていたが、文字通りに泥臭かった。つまり、じめじめと「濡れて」いたのである。おそらく作者も、そんな感触を思い出しているにちがいない。そしてこの句の勘所は、「蝉しぐれ」の「しぐれ(時雨)」に引っ掛けて「濡れて」と遊んだところにあるだろう。現実には「蝉しぐれ」に濡れるわけはないから、一種の言葉の上での遊びであるが、しかしこの言葉遊びは微笑も呼ばなければ苦笑も誘わない。蝉しぐれの喧噪の中にも関わらず、何かしいんとした静けさを読む者の心に植え付けて座り込む。間もなく戦後も六十年。もはや往時茫々の感無きにしも非ずだが、茫々のなかにも掲句のように、いまだくっきりとした体感や手触りは残りつづけている。それが、戦争というものだろう。俳誌「航標」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


August 0382004

 空港に眼鏡の力士雲の峰

                           吹野 保

語は「雲の峰」で夏。気象学的には積乱雲を指し、その壮大さはまさしく雲の峰だ。一読、虚をつかれた。いや、作者も同じ気持ちだったかもしれない。言われてみれば、なるほど「力士」にだって近視や乱視の人もいるだろう。かつて名横綱と謳われた双葉山が安芸ノ海に70連勝をはばまれたときは、よく見えないほうの目の死角をつかれたのが敗因だったという。が、土俵では誰も眼鏡はかけるわけにはいかないから、私たちは先入観として力士と眼鏡はなんとなく無縁だと思い込んでいる。それが、かけていた。思わずも彼を見やると、まぶしそうに夏空を見上げている。眼鏡がキラキラと光っている。いっしよに見上げた大空には、大きく盛り上がった真っ白な雲がにょきにょきと聳えたっていた。広い空港と雄大な雲と大きなお相撲さんと……。この取り合わせが何とも言えず気持ちがよく、作者はしばしそれこそ大きな気持ちに浸ったことだろう。こういう句は、とても想像では出てこない。実景ならではの強さがある。元気の湧いてくる句だ。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)




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