記念懇親句会のビデオ編集。容量の問題がありなかなか進まない。大胆なカットが必要。




2004ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682004

 天と地の天まだ勝る秋の蝉

                           守屋明俊

京都心の真夏日連続記録は一昨日(2004年8月14日)までで途切れたが、40日といううんざりするほどの長さだった。しかし、週間天気予報では、また今日から真夏日がつづきそうだと出ている。どこまでつづく真夏日ぞ、やれやれだ。さて、句の季語は「秋」ではなくて「秋の蝉」。立秋を過ぎると、ヒグラシやホウシゼミなどの澄んだやや寂しい感じの鳴き方をする蝉が増えてくる。が、この句ではそのなかでもミンミンゼミのようなアブラゼミ顔負けの元気な鳴き方のものを指しているのだろう。むろんまだまだアブラゼミも元気だから、両者の合唱は盛夏のころよりも騒々しく、それが時雨のように「天」から降り注ぐ感じは、なるほど「天まだ勝る」いきおいである。「天と地」と大きく振りかぶった句柄は、人の意識に酷暑がその間にあるもろもろの物事や現象を亡失せしめた状態を表していて、卓抜だ。企んで振りかぶったというよりも、暑さの実感が振りかぶらせたのである。今日は旧盆の送り火。京都では大文字の火が見られ、これぞ「天と地」をあらためて想起させる行事と言えるだろう。藤後左右に「大文字の空に立てるがふとあやし」の一句あり。『蓬生』(2004)所収。(清水哲男)


August 1582004

 堪ふる事いまは暑のみや終戦日

                           及川 貞

争が終わったから平和が訪れたからといって、その日から「堪ふる事」が消滅したわけではない。生き残った者にとっては、戦後こそが苦しかったと言うべきか。平和を謳歌できるような生活基盤などなかったので、多くの人々が忍耐の日々を重ねていった。この句は、戦後も二十年を経てからの作句で、ようよう作者はここまでの心境にたどり着いている。たどり着いてみれば、しかし若さは既に失われ、往時茫々の感もわいてくる。作者の本音を訪ねれば、この暑中、何をまた語るべきの心境であるのかもしれない。『夕焼』(1967)所収。(清水哲男)


August 1482004

 首振りの否定扇風機は愛しも

                           小川双々子

語は「扇風機」で夏。まだしばらくはお世話になる。新着の「地表」でこの句を読んで、つくづくと扇風機の「首振り」を眺めてしまった。なるほど、こちらがどう出ようとも、いつまでも首を降りつづけている。それを「否定」の表現としたのが句のミソで、再びなるほど、ゆっくりではあるが永遠に首を振りつづけるとは、赤ん坊の「いやいや」などを越えて、頑固な否定の意思が感じられる。でも最後には「愛し」いよと作者は言い、いきなりの「否定」という強い調子の言葉にぎくりとした読者に「なあんだ」と思わせる。作者一流の諧謔だから、ここに何か形而上的な意味を求めても無駄だろう。二年ほど前だったか、こんな句もあった。「水打つといふ絶対の後退り」。たしかに、水を打ちながら前進する者はいない。後へ後へと退いていくのみだから、その行為はなるほど「絶対」である。「否定」といい「絶対」といい、こうした高くて強い調子の言葉をさりげない日常の光景や行為に貼り付けてみると、たとえ「なあんだ」の世界でも新鮮に感じられるから、言葉というものは面白い。これからは扇風機を見かけるたびに、掲句を思い出すだろう。となれば、扇風機売り場などはさしずめ「否定地獄」みたいなもので、通りかかったら思わず笑ってしまいそうだ。俳誌「地表」(第435号・2004年6月)所載。(清水哲男)




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