東京には晴天猛暑が戻りましたが豪雨に見舞われている地方も。お見舞い申し上げます。




2004ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982004

 実の向日葵少年グローブに油塗る

                           古沢太穂

つう「向日葵(ひまわり)」といえば夏の季語だが、この場合は「実(種子)」ができているのだから、秋口の句としてよいだろう。戦後間もなくの句だ。秋とはいえ、まだ猛暑のつづく昼下がり。さすがに真夏の勢いは少し衰えてきた向日葵の見える縁先で、ひとり「少年」が一心に「グローブ」の手入れをしている。あの頃のグローブは貴重品だったので、これは珍しい光景なのだ。大事に大事に、少年が油を塗っているのも宜(むべ)なるかな。熟成に近い向日葵とこれから成熟してゆく少年との取り合わせは、それだけで生きとし生けるもののはかない運命をうっすらと予感させて秀逸だ。グローブ・オイル(保革油)には、哀しい思い出がある。小学生時代、クラスで本革のグローブを持っていたのはS君ひとりきりだった。誰もが羨んだけど、彼は遠い街から養子にやってきて、実家を去るときに父親がくれたものだということも知っていた。句の少年と同じように、学校でもよく油を塗っていたっけ。そんな彼と、ある日猛烈な喧嘩になった。取っ組み合いの果てに、彼は私の鞄の中味をぶちまけると、いちばん大切にしていた小型の野草事典を引き裂いたのだった。逆上した私は、同じように彼の鞄の中からグローブ・オイルを掴み出し、思い切り床に叩きつけた。途端にそれまでは涙を見せなかったS君が、びっくりするほどの大声で手放しで泣き出したのである。私も泣いた。泣きながらしかし、あまりの彼の悲しみように、後悔の念がどんどん膨らんだことをいまでも覚えている。数年前のクラス会で、謝ろうと思っておずおずと切り出してみたところ、彼は「覚えてないなア」と微笑した。Sよ、覚えてないなんてことがあるもんか……。『三十代』(1950)所収。(清水哲男)


August 1882004

 夏休みも半ばの雨となりにけり

                           安住 敦

供たちの夏休みもいまごろになると、さすがに日に日に秋の気配が感じられるようになる。ましてや雨降りの日は、真夏の陽性な夕立などとは違って、しとしとと秋のうら寂しい雰囲気が寄せてくるようだ。子供にだってそういうことはわかるから、まだ夏休みはつづくのだけれど、「もうすぐ休みも終わるのか」という感傷もわいてくる。かっと照りつけていた日々の連続のなかでは、思いもしなかった神妙な気分になってくるのだ。掲句はむろん大人の句だが、そんな子供時代を回想しているのだろう。この原稿を書いているいまは、雨降りの夕刻だ。まだ五時過ぎだというのに、日没が早くなったこともあって、開け放った窓の外には早くも夕闇がしのびよってきた。時雨のようなかすかな雨音がしている。つい最近までの極暑が嘘のようで、まさに夏の果てまでたどりついたという実感。こういうときに、人は老若を問わず内省的になるものなのだろう。すなわち私たちの情感は、全てとは言わずとも、天候に左右され、天候に培われてきたところは大きい。この句はなんでもない句と言えば言えるが、実際にこうして雨の日に読み触れていると、もはや無縁となった子供時代の夏休みへと心が傾斜してゆく。と同時に、あのころの無為に過ごした日々と現在のそれとがひとりでに重なってくるのである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 1782004

 昼顔の見えるひるすぎぽるとがる

                           加藤郁乎

語は「昼顔」で夏。一つ一つの花は可憐ではかなげに写るが、猛暑をものともせずに咲くのだから、あれで芯は相当に強いのだろう。そんな昼顔が、けだるさも手伝ってぼおっと見えている暑い午後の句だ。ここまでは誰にでも理解できるけれど、さあ下五の「ぽるとがる」との取り合わせがわからない。むろん作者も実際のポルトガルにあって、この句を作ったわけではない。しかし句の字面をじっと眺めていれば、あるいは句を何度か舌頭に転がしてみれば、静かな悲しみを帯びた不思議な魅力が立ち上がってくるのがわかる。多用された平仮名のやわらかい感じ、重ねられた「る音」のもたらす心地よさ。像も結ばないし意味も無い句でありながら、このような印象を受けるのは、やはり私たちの言葉に対する信頼の念があるからだろう。言葉に向き合ったとき、私たちは当然のように何らかの結像や意味を求める。その心的ベクトルをすっと外されたときに受ける戸惑いが、この句の魅力を生み出すとでも言うべきか。外した作者の外し方も、人が言葉に向き合うときのありようを熟知している。途中からの平仮名表記は、読者に最後まで一気に読ませるためのマジックなのであって、この間に漢字や片仮名を配置したのであれば途中で放り出されてしまう。つまり掲句は最後まですらりと読めるように書かれており、読み終えてから読者が「あれっ」と振り返る構造になっているわけだ。その「あれっ」があるからこそ、なんとも不思議な魅力を覚えることになる。ナンセンスの世界へと人を誘うためには、生半可な技巧ではおぼつかない。『球體感覚』(1959)所収。(清水哲男)




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