来月から購読紙を換えることにした。ニュースはネットで十分だから不要とも思ったが。




2004ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2782004

 朝蜩ふつとみな熄む一つ鳴く

                           川崎展宏

語は「蜩(ひぐらし)」で秋。名前通りに夕刻にはよく鳴くが、夜明け時にも鳴くので「朝蜩」。朝方は鳴く数も少ないから、何かの具合で句のように「ふつとみな熄(や)む」ことがあるのだろう。瞬間「おや」と訝った作者の耳に、再び「一つ」が鳴きはじめたと言うのである。いくら哀調を帯びているとはいっても、雨や風の音などと同様に、日常的には蜩の鳴き声に耳そばだてて聞き入る人はいない。よほど激しくない限り、鳴いているのかどうかも定かではないのが普通の状態だ。だが、そうしたいわば自然音が、句のように突然はたと途絶えたときには、途端に人の耳は鋭敏になる。天変地異を感じたというと大袈裟だが、どこかでそれに通じるところのある自然の破調には、同じ自然界に生きるものとして、本能的に身構えてしまうからなのだと思う。したがって掲句は、蜩のある種の生態をよく捉えている以上に、人間本来の生理的な感覚をよく活写定着し得ている。蜩の句というよりも、蜩を詠んで人間を捉えた句とでも言うべきか。再び鳴きはじめた「一つ」を聞いたときにこそ、作者はほっとして傾聴したであろうし、いとおしいような哀感を覚えたことだろう。朝の蜩か……、遠い少年期に聞いたのが最後になってしまっている。『観音』(1982)所収。(清水哲男)


August 2682004

 抱へゆく不出来の案山子見られけり

                           松藤夏山

語は「案山子(かがし)」で秋。「かかし」と発音する人のほうが多いと思うが、「かがし」と濁るのが本来だ。大昔には鳥獣の毛や肉を焼いて、その臭いで害鳥などを追い払った。つまり「嗅がし」に語源があるので濁るというわけである。この句を読んであらためて、案山子にもちゃんと作者がいるのだと気づかされた。当たり前といえば言えるけれど、通りすがりに眺める人のほとんどが、作者の存在には思いが及ばないだろう。よほど目立つ傑作は別にして、作りの上手下手なども気にはかけない。それに案山子の役割は害敵を追い払うことなので、人の目から見た巧拙が、そのレベルの高低で鳥たちに通じるかどうかも疑問だ。「なんだ、こりゃ」みたいな下手っぴいな作りの案山子が、いちばん効果を上げるかもしれないのである。いくら造形的に優れていても、効果がゼロなら話にもならない。要するに、当事者以外はどんな案山子だって良いじゃないかと思うしかないのである。ところが句の作者のように当事者ともなると、事情は大きく変わってくる。そこはそれ近所の手前もあって、そう下手なものは作れない。が、結果は無惨な案山子が出来上がり、立てないわけにもいかないのでコソコソと隠すようにして運んでいる途中で、不運にも「見られけり」。冷や汗が吹き出たことだろう。笑っちゃ悪いけれど、思わずも笑っちゃった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2582004

 ひとめぐりするたびに欠け踊の輪

                           原 雅子

句で「踊(おどり)」といえば盆踊りのこと。秋の季語。句は輪踊りが「ひとめぐりするたび」に、だんだん踊り手の数が欠けてくる様子を詠んでいる。だいぶ夜も更けてきて、踊りのピークが過ぎようとしているのだ。見物していると、そこはかとない哀感を覚えるシーンであり、なんだか名残り惜しいような気持ちもわいてくる。とりわけてたまに帰省した故郷の盆踊りともなると、この感はひとしおだ。子供の頃からなじんだ場所で、組まれた櫓も同じなら唄も同じ、踊り方も同じなら踊り手の数も昔と似たようなものである。帰省子が、一挙に故郷に溶け込めるのが盆踊りの夜だといっても過言ではないだろう。踊る人々の輪のなかに、懐かしい誰かれの姿を見出してはひとり浮き立っていた気分が、しかし時間が経つに連れだんだん人が欠けてくると、少しずつ沈んでくる。懐かしいとはいっても、親しく話すような間柄ではない人も多いし、顔は知っていても名前すら知らない人もいるわけだ。つまり踊りの輪から欠けていった人とは、それっきりなのである。もう二度と、見かけることはないかもしれない。そうした哀感も手伝って、掲句の情景は身に沁みる。私の田舎では、踊りが終わると、すぐそばの川に灯籠を流した。川端は真の闇だから、もう誰かれの顔は見えない。『日夜』(2004)所収。(清水哲男)




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